俯瞰

鞄の中に入れっぱなしだった本を、雨の通勤や移動の多かった今日、一気に読み終える。いつもだったら新刊の時に買ってしまう作家だったが、ペラペラと捲った感じからこの本は文庫になるまで手を出さなかった。内容そのものから、というよりは、曖昧な俯瞰図を見ているような文体だったからだと思う。実際、読んでみてもその印象は強かったけれど、実験的な作品と位置付けられているからだろう、物語を文体から作っているのだと読み終えてから納得した。
俯瞰というある種神的な視線と主婦の井戸端会議的な視線の行き来を読むのは気持ちが悪い。でも、現実は遠くもない。極端にいってしまえばGoogleがサービスとしてそんなものは無料で提供していて、それを、これはすげぇ、と言って、気持ち悪がりもせず、逆に便利だと言って疑問も持たずに利用している。社会は始めからそんな場所だったから、自然と体感出来るのだろうけれど、それまでの、不便な社会、を知らない。それが少し恐くなる。

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スケジュール帳

これまでも幾度も手を出し、その度に挫折感さえ味わう事なく忘れ去られ、再び目にした時には既に年が変わっている、というスケジュール帳に懲りずにまた手を出す。経験上、使わないことを分かっているからそんな気もなく、どんなものがあるのだろう、と見ていたのだが、MOLESKINのものが半額になっていて、まぁこの値段なら、と。こういうものは持った時点でどうしても満足してしまう。帰宅してビニールを剥ぎ、よし、と机の上に置く。置いたまま少しずつ少しずつ隅へ追いやられ、隙間からポトンと落ちる。そして年を跨ぐ。そんな先が読めるので、今回は予定にもならない用事を取りあえず書き込む。が、それさえ殆ど無い。そもそも予定を出来るだけフリーにしたい、というのが性分だったと、今はまだ雇われの身だしな、ということで隠す。
携帯でメールをすることはあまり無いのだけれど、久しぶりにしっかり返そうという気になって打っていると、相手の過ごす空間が洗濯物に隠れた窓に映る。部屋の片付けをしている姿が映り、まだ送信していないメールが届き、片付けが一段落してやっと手に取る。返信文を考える間もなく打って送信する。そして画面の外に消えて行く。気にもしていなかったけれど、メールは時間を共有しているようでいて、それはただ画面を共有しているだけだった。ただまぁでもその向こうに相手が見えるのか。

2月12日から13日

どんな言葉があるのだろうか、と一日中考えていたが、どの言葉にも責任を持てない自分を幾つも重ねるだけだった。たったひとつの言葉でさえ、どの方向にも、どんな形にも、広がっていく。結局残ったのは悔しいという内側に向ける言葉で、この言葉の傲慢さに気づいた途端に発する言葉を失った。
あ、と言えば人は振り向くかもしれないし、い、と言ったらどこか痛めたのかと聞くかもしれない。う、と言ったらトイレはこっちですと教えてくれるのかもしれない。
振り向いた人は、でも次の瞬間転んで大怪我をするかもしれない。痛みを心配した人は、でも次の日にそのことから小説でも書いて、数年後には映画化までされているかもしれない。
音には数えきれない程の可能性があって、でも、言葉はそこに少しの方向性を与える。文章はそこに奥行きを与える。僕らが話す言葉はだから、やはり恣意的であって、それを今回は拒否していた。方向性が示されるのを恐れて、等しく均等に広がる言葉を探していたのかもしれない。そんな言葉は無い。
何れにしても相手がいてのことで、方向性を与えても影響は何もないかもしれないし、もし全ての可能性が残された言葉があったとしても、煙と変わらないくらい、吹いて消されてしまうものなのかもしれない。でもだからといって言葉を諦めたら、それ以降はもう口を開けなくなってしまう。
結局、今回はそんな機会も無く、手の届かない(伸ばさなかっただけか)所を通り過ぎて行った。ただ悔しいというのは強く残る。