undergarden

ポテサラ(ってポテトサラダの略だとはどうしても思えない)

じゃあなんだっていうとよく分からないけれど、ニュアンス的には、ポテも(とても、の活用形みたいな)サラサラしている何か、という感じ。

例えば苺が嫌いなパティシエが作ったデザートなのに何故か他のものよりも苺を使ったものの方が美味しい、ということはあるだろうか。人混みの苦手な人が渋谷のマックで執筆した小説が素晴らしかった、というのはありそうだ。そんなことをポテトサラダを食べながら考えていた。きゅうりが入っていなかったからかもしれない。その臭いだけで吐き気を催す程に嫌いなものだったポテトサラダ。でも考えてみれば嫌いだからこそ作り方を知っている。どうやったらこんなにまずいものが作れるのか、と。好きなもの程作り方を知らないのかもしれない。若しかしたら自分は世界一美味しいポテトサラダが作れる人間なんじゃないか、とちょっと考えてみたけれど、まぁあり得ないか。
欲望のイメージ(想像)が先行してその実が全く足りない、ということはよくあることだろう。こんなはずじゃなかった、みたいな。その逆に不本意な気持ちで進めたものが、あれ?良いじゃん、てことも稀にある。録音された自分の声を聞いた時のようにイメージがずれていても、それがより本質に近いものだったら、イメージなどにいつまでも拘っていては勿体ない。現実は違うのだから。

長野へ戻る新幹線では乗ってすぐに本に目を落として気づいたら篠ノ井あたり、というのがいつもの感じなのだが、やけに窓の外が気になってしまい、癖で座席に置いてあるフリーペーパーを手に取って1ページ目のエッセイを読んだだけで、あとはずっと外を眺めていた。暮れていく空に太陽が最後の力を振り絞って、色んなものをキラキラと輝かせる。その中をゆっくりと車が走り、ゆっくりと曲がる。どちらへ向かっているのか分からない程に緩やかに流れる川の土手を散歩しているおばさん。屋上にあるフットサルコートで一人ボールを蹴る少年。群馬に入る頃には雲が多くなり、軽井沢では吹雪いていた。上田あたりでは再び雲が晴れて山越にわずかに太陽の光が筋を描いている。日常を目一杯掬おうとしても次から次へと指の間からこぼれ落ちていくばかり。近いようで遠い、遠いようで近い、被災地にだからこの日常を掬い取って渡すことは出来ない。ただ、在る、ってことは重要だという気がしている。

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