undergarden

凸月

ハテナ缶の無い自販機、知らぬ表札の木造家屋、腰ほどの高さのフェンス、老いた犬、コルベット、プレハブの校舎、新築の家、雪や石やで狙った電柱の少年、惚れた娘が消える辻。

小学校への通学路だった道を、小学生と同じような移動手段しか持たない30歳になって再び歩く。中学校は小学校の更に先だから、9年間も通った勝手知ったる道。車でも何度も運転して通っている。その迷うはずのない道で、惑う。全てが小さく狭い。振り返ればあるはずの景色がずれる。夢の中か特撮のジオラマか、と目眩に襲われる。ただ、靄の向こうにぼんやりと浮かぶ記憶の輪郭が、晴れるにしても隠れたままにしても、ここで育ったのだという確かさを与えてくれる。それにしても随分狭い範囲で冒険をしていたものだ。用事を終えて帰る道は、子供のころには超えてはならぬと言われていた学区外の道を選んだが、そこを隔てるのは車一台分の狭い道でしかなかった。興奮しながら超えていたそのラインを今ではとても羨ましく思う。
急遽帰省することになり殆ど飛び乗ったようなものだったから、いつも座る左列の窓側の席がいっぱいで2席だけ空いていた右列の窓側を余計なお金を出して座る。大抵、本に目を落としてから少々眠り軽井沢〜佐久あたりで目覚めるという感じで、左側の席だと丁度町並みが望める。上田の少し手前だが、千曲川の彼岸あたりから山裾まで緩やか登る一直線に伸びる道の街灯が、山奥の古刹、と言いたいところだが、黄泉への道標の灯のように見えて惹きつけられる。まぁでも今回はお預け。そのかわりに赤く大きな月を見る。いつもと違う間接視野の景色に長く本に目を落とすことが出来ず、排気に烟る関東平野の街を流れるままにぼんやりとただ眺めていた。薄皮を掛けたような、という文章を読んだ直後だったから、これがそんな感じか、と思いながら。その視線の先から月が昇る。殆ど目線の高さから。そういえば、と子供のころ、まだ低学年だったと思うが、父に連れられて初めて東京を訪れたときのことを思い出す。銀座あたりだったか、タクシーの車内からビルの合間に見えた真っ赤な大きな円を、あれは何、と聞いていた。まさか月だとは思ってもいなかった。東京、という幼いイメージが生んだはずの疑問が今でも同じように繰り返される。暫く眺めていると、徐々に小さくなり赤さも落ちる。長野県境に近づくと再び沈み、次に昇ったときにはいつも見るお月様となっていた。

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