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オウンゴール

日本代表のここ2試合のオウンゴールでの失点が3点とか、まぁ珍しいことになっているけれど、流れの中で当たって入るというようなものだから、誰の点なのかということは問題ではない。ただオウンゴールが多い、というのは問題。自ゴールの方を向いてディフェンスしているということ。しなければならない状況を作ってしまっているということ。自分たちのゴールの方を向いてディフェンスしてるとか何なんだ、と。1対1で抜かれて追いかけてる、ってこともあるだろうけれど、ペナルティエリア内若しくは付近ではカバーリングが必ず入る。そのカバーリングする人さえゴールを向いてる。しかも、まぁこれは仕方がないけれど、真ん中の2人は前に行くプレーは強いのだけれど後ろ向きのプレーは非常に弱い。それを分かっているからなのか、ずっと問題だと思い続けているけれど、経過時間に比例してディフェンスラインが下がっていく。一番後ろの2人としては、自分たちとキーパーの間に相手が入ってくるのが一番恐い。しかも同じライン上のいたら相手の方が、足の速さが例え同じでも、前を向いている分早い。だから徐々に徐々に下がっていく。それでディフェンスと中盤の間にスペースが生まれて、そこで相手が自由にボールを触れたり、セカンドボールを拾われたり、と流れが相手に大きく傾く。で、結局、恐くてディフェンスラインを下げてるのにも関わらず、相手との距離も離れているから、といっても個人的には常に半歩くらい遠い気はしているのだけれど、ディフェンスに行くのが遅れたりプレッシャーが掛からなかったりで縦に行かれ、結果、センタリングを上げられ、シュートを打たれ、ちょっと当たってオウンゴール。ちょっと、っていう感じでも無かったのもあったけれど。得点力不足、とずっと言われているけれど、あのディフェンスをコントロール出来る人がいない、ってことが今の日本代表の一番大きな問題なんじゃないかと思う。熱いだけでも、ヘッドが強いだけでも駄目。ゲームコントロールくらい頭にある切れてる人じゃないと。あんなディフェンスで通用するリーグを抱える日本が世界を相手に簡単に得点できるはずはないのだから。
でも、今日のドログバの負傷退場(結局骨折)にはショックだった。仕方のない接触プレーだったにせよ(とも思えないが)、ワールドカップ直前の強化試合なのだから、行く行かないを判断して欲しい。逆に自分が怪我をしていたかもしれない。そんなことを恐れては勝てるものも勝てない、のかもしれないけれど、そういう状況になる前にすることが沢山あるし、あんなディフェンスになってしまうことを反省すべきだし、何のために戦っているのかを知るべき。まぁでも接触プレーも怪我も当然起こり得るスポーツ。接触してしまった闘莉王だけを非難する問題ではないけれど、ただ彼のオウンゴール後のあの苦笑いは許せない。ついでに、ベスト4っていう中途半端で曖昧な目標も。前回のイングランド戦は、負けたけれど久しぶりに良い試合だった、というような評価が見られるけれど、あの程度のイングランドに問題無く今勝てなければベスト4なんて見えない。最高のイングランドには勝てなくても良いってことでしょ、ベスト4ってことは。優勝目指してる国と同じ様なペースでの調整じゃあ予選突破すら叶わない。
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言葉

誰かと話をしなければならない日々ではないから、一言も発せずに過ぎる一日もある。言葉が他者との共通認識を持つ為にあるとすれば、だからまぁ尤もで、それ故、とだけとは言えないけれど、言葉を持つことが難しいと思うようになってきた。ただ好き勝手喋ったりするのは良いが、欲望のままに吐き出しているようなものだから、知らずに傷つけてしまっていることもあるし、限られたテリトリーの中でしか使えない。昔から携帯メールの返信が素っ気ないと言われ続けてきたけれど、これも含まれるだろう。けれど、その中でも自分の気持ちをそのまま伝える言葉は難しい。寄り添うような言葉は難しい。誤解を恐れて、取り繕うようになって話が長くなったり、多方面から言葉を持ち出して一語を囲むようにしてメールが長くなったり。
何となくテレビを見ていて、前の総理大臣は漢字が読めない、と叩かれていたな、と思い出す。でも、個人的には今の総理大臣の方が問題は大きいように思う。英雄像に自分を重ねて、それに酔って言葉を吐く。伝わる言葉では無いし、伝えようともしていない。言葉を使うことの重要性をちっとも理解していない。まぁテレビに出ている人が全般的にそうだから、テレビがそういうものなのか、若しくはテレビで文化がそうなってきたのか。かと言って、こちらがそれに倣って諦めたくはないから、28歳目前に、何か既に済ませておけよ、っていう言葉の問題で頭を悩ましていた。
結局、相手に寄り添うような言葉(この言葉自体が少々気持ち悪いけれど)は、自身を含んだ人というものを知らねば持てない。突き放すにしても、距離を縮めないにしても。でもまぁ言葉だけのことじゃないか。一人で生きられない限り、自分も相手も誰にも、フィジカルもメンタルもある。と、思いつつ幾つかのお祝いメールに、相も変わらず素っ気ない返信をして、誕生日も既に過ぎた。
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千疋屋

これまでも何度か立ち止まってはその値段から通り過ぎるしかなかった千疋屋へ、2月後半から3月いっぱい掛かりきりになった仕事の打ち上げで連れて行ってもらいご馳走になる。千疋屋総本店日本橋店。平日の昼間だというのに、ハイカラな老人やセレブな妻達で賑わっている。土日ともなれば並ぶほどになるらしい。不況だというのに。不況だからか。まずは調査しておいたプリンアラモード。プリンが美味しい。早々に平らげたこちらを見て追加でスペシャルパフェもどう?と勧められ、お言葉に甘えて追加注文。アイス美味しい。肝心のフルーツは、普段あまり食べないのでイマイチはっきりした感想が持てないけれど、嫌いの部類に入るバナナを折角だからと食べてみた。チョコが軽く掛かっていて、チョコバナナなんて信じられない、と思っていたのに、美味しい、食べられる。ただ、スイカなんかはやはり暑い夏に冷やして食べたいし、みかんは冬に炬燵に入って食べたい。千疋屋、という名前自体が、季節感の替わりになっているのだろうか。無駄に広くでかいビルに入っているのだから、もう少しスペースは欲しい。
予定より長く、結局2週間近く長野に帰っていた。一人で部屋にこもっている時間が長く、そのことに慣れているから、家族でも誰かがいる、というのは以前はちと辛い感じもあったのだけれど、それが抜けていた。既に妹二人もそれぞれの家庭を作って生活をしていて、頻繁に実家に顔は出すものの普段は母も一人。それぞれに言えないこともあるのかもしれないし、生活をともにしていないこともあるのかもしれない。帰った途端、次から次へと母は話を繰り出し、こちらは全く訳の分からないテレビ番組をぼんやりと眺めながら、聞いている。ある程度話し終えると、ふと時計を見て、今日も寝るのが遅くなった、と風呂に消えていく。こちらも、部屋に戻り持ち帰ったラップトップの前に座る。風呂から上がったような音がしたなと思っていると、スッとドアが開いて、風呂で思い出したのか、追加の話をしておやすみと消えていく。何となく、ふーっ、と息をつくような気になって、再びパソコンに向かう。そんな日々は、でも、こちらには思いの外大きく響く。東京に戻ると、そうやって話す人は部屋には勿論いなくて、といって別段欲しいとも思わないけれど、長野を発った時から寂しさを少し引きずっている。

冬の終わりに

なかなか肉の付かないこの身体に寒さは大分堪えるけれど、冬は良い。長野の天気予報にはまだ雪マークが付いてはいるが、想像しても、窓に当たった瞬間に水滴となるような霙で、パサッ、とか、カッカッといような音のする、これから積もりますよ、という雪ではないことに、冬は終わったのか、と少し寂しくなった。
木枯らしが吹く頃には心が浮つき始める。毎日天気予報をチェックして、北海道、東北と行く予定もないのに雪マークが付いていないかと巡り、ライブカメラを見る。何に呼ばれているのか、まぁ雪ということになるだろうが、何となく見に行かなきゃ、という気になる。東京では降らないのに、空を見上げたりする。
世界が終わる前ってこんなものじゃないか、というような静寂感。凍てつく大気に肌を晒して白い息を吐く。灰色の空から大粒の雪が真っ直ぐに落ちてくる。
暖かさ、を作るのが冬だけだからだろうか。失った世界で得るものが大きい。満たされないことが満ちていく。
季節が逆戻りしたような気温の冷たい雨の中、靖国通りの桜は既に咲き始めていた。雪はもう降らない。桜の花びらと一緒に冬を剥ぎ取るような強風に、毎年、春が来たな、と実感している。
2年ほど前に知って、今年こそと心に誓った冬の終わりに催される山村での行事は、今年も仕事で見送りとなってしまった。その仕事も納品となり、来週、長野へ行くけれど、冬を既に仕舞ってしまった気持ちは、どうか寒さが残ってませんように、と都合よく願っている。
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チャリ


この1年は殆ど乗らなかったけれど、気にはなっていた自転車の整備を、春の陽気に誘われて始める。取りあえず気持ちよく乗れれば良いや、と簡単な掃除程度のものとして始めたはずだったが、どんどんと深みに嵌っていく。ロードレーサーということもあるだろう。新たなタイヤを注文してリムからタイヤを外し、ブレーキパーツからディレイラー、シフターと外せるところは外す。必要なものを買いに駅前商店街へ向かい、足りないものは徒歩30分のホームセンターまで行き、外したパーツを錆取り液に漬けたり磨いたり、とほぼ二日。外したパーツを再び取り付けながら、そのシンプルな構造に詰まった技術に感心しながら学ぶ。あとはタイヤの到着を待つだけだが、どっぶりと身体は浸かってしまったようで、ハンドルはブルホーン型にしたいな、そうしたらバーコンにするか。スプロケットも替えたいな、などと自然と欲望を膨らませている。もう少しで、カメアシを辞めて1年になる。
写真論の流れからアーバスの写真集を購入。仕事の合間に何度も捲る。捲った後は暫く仕事が手に付かない。あまりに写真すぎる。ジャーナリズムやファッション、アートではない、ただ人がカメラを構えて撮っているという感じ。なんてマゾな人だろう、と思ったけれど、それが現況(自己)への反抗だったのか。他者を他者として置くのではなくて、受け入れる心理。こちらはいまだ吐き気を催すばかり。