東京に戻りやっと歯の本格的な治療を始めたが、早々に、難しいね、と医者に告げられた。神経が珍しい形をしているらしい。治しきれない可能性もある、とのこと。歯についてのことだとは分かってはいるが、人格の診断をされているようにも聞こえた。これから数回通わねばならない。
iPhoneアプリを色々と探しては試し、一日が過ぎていく。元々、それ程携帯は使わないしほぼパソコンのある場所にいるから、入れたとて大して使わないと思っていても、それぞれのアプリの不便さが次への欲望を生む。結局、未だ決定的なアプリは無くて、そもそも非常にパーソナルなツールだからどこかに痒いところは残ってしまうので、そこに手を届かせようと違うアプリに手を出して、他の場所が痒くなっているようなものかもしれない。痒いところに手が届いた時の幸福感を味わいたい、という気持ちもある。これまでの携帯については、出来ることなど諦めていたけれど、まぁ逆にそれがシンプルで良かったのかもしれない。ただ、選ばない、ということを仕組まれていたようにも感じる。
MTの重さが何だか辛くなってきたのでWPに乗り換えようかな。
甥が家の中でチワワを追い回し、チワワは逃げつつも姪の食べこぼしを狙っており、姪は握ったフォークを放り投げる。親やら飼い主やらがあちこちで怒号を上げる中、年が暮れた。甥達家族が帰ったあと、6月に結婚する妹はゼクシィを捲りながら、大晦日じゃないみたい、と呟く。年明け早々、妹のドレス合わせに付き合わされることとなる。
願っていたようなタイミングで雪が降り積もり、また?と母親に言われながら、近所に散歩へ出た。部屋の中にいるとファンヒーターの前に陣取っても寒いのに、外へ出ると寒さが気にならない。しかし、歩いてみると公園がそこら中にある。滑り台だけの小さなものから、地域の運動会などが開けそうな広場が併設されたそこそこ大きなものまで、500m程歩けば公園が見つかる。子供の頃、その内の2つには遊びに行ったことがあったが、どちらもいつも遊んでいた公園ではなかったから、今では歩いたって、近い、と思う距離なのに、どこか遠出するようなワクワクした気持ちだった。そりゃあ叔父さんにもなるよね、と帰り道のコンビニで人生初のお年玉袋を買った。
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国立劇場にて歌舞伎。ここ二日ほど腹痛に悩まされて睡眠をちゃんと取れていなかったこともあり、所々夢現ではあったけれど、無知なりにも、成る程これは鍛錬が必要だ、と、声の出し方や身体の動きを見て思う。下手、と言っては失礼だけれど、同じ舞台に立っていても、その差は大きい。でもあの、かけ声、にも上手下手がある。現場収録の落語のCDなどにも入っているが、タイミングというものが大切。絶妙なかけ声は芝居のひとつになっているし、無ければそれでは締まらない。でもたまに中途半端な所で、しかも猫が鳴いている様な妙な声でかけ声を掛けるものもいる。これでは温めていた気持ちがすっと冷めてしまう。あの独特の節でもって、絶妙な、役者とアイコンタクトでもしているタイミングで掛けなければ。播磨屋!
昨年はインフルエンザで伏せっていて見逃したけれど、今年は早々から調べてToDoリストに入れてあった、小田和正のクリスマスの約束。ただイマイチだった。これだけの大人が集まって、ただ己らのことしか考えなかったのか、という感じ。日本のポップミュージックの将来の為に今歌っている人たちのリスペクトし合う気持ち、というようなことを言っていたけれど、それで生まれたものが、それぞれの代表曲をメドレーで繋げて皆で歌う、アーティスト自身が感動して涙、というのは何とも寂しい。それならば、どこか無人島へ行ってやっても変わらないはずだし、それを映像として流した方がマシ。スタジオセット組んで、観客を入れて、ということならば、観ている側が言葉にできる何かを生んで欲しい。今回のは、良かったね、としか言いようがなかった。残念。
近所の煙草屋の外装が新しくなっていた。煙草屋を営んでいる老夫婦もどこか明るく、仲が良くなった印象。ただ、窓口が広くなった上に全面が薄いガラスで、内側も工事の為か雑多に色々と積んであったものが、棚が設置され整理されるとガランとしてしまい、この時期だけに寒そう。
事前情報から惹かれなかったから何となく年明けにしようと思っていたのだが、考えていたよりも大分安くPS3が手に入ったのでFF13を発売日に買いに行く。Amazonで予約した方が1000円程安かった。40時間程でクリア。年末の帰省まででギリギリくらいかな、と思っていたのでボリュームは少ない。グラフィックは売りにしているだけに他のゲームよりは良いのかもしれないが、犠牲にしているものが多すぎるし、大きすぎる。ゲームを、RPGを作っているとは思えない。
昔はコンビニで予約して早朝に取りに行ったり、学校を早退したり、まぁ休んだり、と出来る限りゲームをする時間を作ろうと、あれこれ工面しながら進めていた。学校へ行っても、友達と同じゲームの話をしたりもしていたし、どこか競争心のようなものもあった。こういうことは、ゲームをする上で、必要なことなのかもしれない。というか、ゲームというものに含まれていたのだろう。自分の今の環境もあるのだろうけれど、でも、最近のゲームは、社会派な感じでありながら、社会を閉ざしているような感じがする。
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どんな因果なのか、縁あってのことだったのだろうけれど、仕事で長野へ帰省した夕刻、たまたま通りかかった道の脇に立ててあった告別式の案内看板に目が止まる。聞き慣れない姓が書かれていたが、知った姓だった。信号待ちで車内から覗いてみると、既に終わったらしく、入り口辺りに数人疎らにいるだけで、友人の姿は見えない。違うか、と青信号で過ごした。それが週末のことだったが、週が明けてもやはり気になって電話してみると、暫く話してはいないが、変わらない調子で電話に出た。やはり違うか、と思った矢先に、母が逝った、と告げられた。こんなにも急いで話す奴だったか、と入る隙も与えず際限なく喋り続ける友人に、こちらはただ相づちを打つことしか出来ない。何れにしても言葉が見つからない。最期を看取ったのが彼で、それまで付きっきりで看病したのも彼だった。不況の煽りを受けてリストラになり、次の仕事を探している最中に倒れ、それから3ヶ月、心配させぬようにたまにバイトだと言って何も無い家の外へ、重い身体を持って行く時以外、自宅でずっと友人が近くで看病をしていたという。
ここ数日さ、まぁ葬式だとか色々あって落ち着いてる時なんて無かったけどさ、でも家に帰ってふと気づくと、母親の面倒を看ようという気になってるんだよ。骨が目の前にあるのにさ。骨は骨でしかないよ。何でもない。手を伸ばしてもどうしようもないから、代わりにもなりはしないけれど、母の前では吸わなかった煙草に矢鱈と手が伸びて、気づけば二、三箱空いてて。酒も幾らでも入る。酔わないんだよ。あぁ一升飲んだな、って分かってるんだよ。でも、酒が喉を通る度に、次の酒を口まで運ぶまでの間に隕石でも落ちてきて、それで俺死ぬかもな、と思うんだ。
東京へ戻っても、布団に入ると友人との長電話を思い出す。知っている人の死は、それ自体辛いことではあるけれど、それよりも、その周りの人の心痛を案じることが辛い。そのどうしようも無さも。彼は、こちらも父親を亡くしているので、どこか同じ悼みを共有した者として話をしていたが、こちらは同意を求められる度に、薄情だ、と自身に向かって言いながら曖昧に答えていた。共有など出来ないし、するものでもない。それぞれ受け入れていくしかない。こちらは一時、和らげてあげることしか出来ない。彼のことを案じながら、でも、いつの間にか、自分と父の朽ちた繋がりを掘り起こしている。
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