悲運としか言えないが、急遽決めなければならなくなった実家の引っ越しで3連休は長野へ戻る。電話で半分近くは捨てた、と聞いていたが、帰ってみるとそれでもこれだけあるのか、という段ボールの山。でもそれよりも、2階から洋服ダンス、和ダンスを降ろすのに義弟とその友人との男3人掛かりで苦労する。運び入れた時の記憶は既に無く、狭い階段で抱えながら、向きを変えながらこの向きなら抜けるか、と試行錯誤。もう大怪我寸前という所までそれぞれ体験した。自分の荷物に関しては、運ぶ前に帰る時間を作れなかったので、全て任せて、取りあえず運び入れてから選り分けるということになっていたのだが、こちらは思ってたよりも少ない。考えてみれば、引っ越してから私自身は殆ど住んではいなかった。もう社会人目前という時期だったこともあろうが、住んだのは実質的には1年程度だったと思う。事ある毎に帰ってはいたが、それでも、生活をしている帰る場所は別にあり、おやすみ、と言って自分の部屋に戻るのではなく、じゃあね、と玄関を出るから置いていくものも置いておくものも無い。生活していた証しとして残っているものは専用の食器くらいで、それが何となく淋しいようで、母は迷惑がるだろうけれど、もう少し荷物を置こうかな、と思ってみたりする。
どこへ出かける訳にも行かないけれど、過去と現在を行き来していた週末は、筋肉痛と埃からの鼻水くしゃみにいつも通り考え無しの薄着からの風邪が身体に残った。ただ、ちと来月からのことを考えて焦燥していた気持ちが少しは楽になった感じはある。まぁ焦燥してなければならないといえばならないんだけれど。
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帰宅して椅子に座った途端、ストンと何かが身体から転げ落ちて、何もする気がしなくなった。やるべきことはあって、やりたいこともあって、でもそれらが現実的な目的に繋がらない。パラレルワールドのように違う時空間でのことのように心も身体も反応しない。転げ落ちたのは自分自身だったろうか、と、軽くなったはずなのに、重い足取りで布団に潜り込んでしまう。そういえば昨夜、軽い目眩に襲われて、身体が斜めに傾いていた。昼間、前兆だったのか、ふと、何も変わらない世界に戻った感覚に襲われていた。自転車を漕ぐスピードがいつもより速かった。徐々に捩じれ、千切れただろう要因を探るように曖昧な眠りに入り、それでも起きてみると少しはスッキリしたような感覚はあったが、夕食でも摂ろうかとキッチンへ足を踏み入れると、再びストンという音が響いて布団に戻った。辛く苦しいわけでもなく、でも、辛く苦しいわけでもないわけもなく、ただこの瞬間の無為の中の重さに耐えられず、それが刻々と積み重なっていく、当たり前に捉えていた連続性に息も止めたくなる。希望を考えてみても、それは絶望の淵へと一歩ずつ近づく足取りであって、あぁ、好きな言葉ではないな、と思いつつ、そんな字が含まれた人を思い浮かべて、また眠りにつく。夜半前に目覚めた時には流石に空腹が先に立ち、コンビニへでも行こうかと財布を手に取ったが、玄関で足が止まり、その先に足が伸びず、冷凍してあったご飯をレンジで温めて、納豆で食べた。それでもやはりストンという音の余韻は長く響いている。
疲れから空腹を満たす気力も湧かずにいると、中学校だったか高校だったか数学の時間に、0.999…=1、と教えられたことを思い出す。数年前にも思い出して、どうしてそうなるのか、という事は忘れていてそれについて調べていたみたいだけれど、また忘れて調べ直す。考える時間は無限にあるような気になって、納得いく形を探していたが、やはり字形や読みが違うから納得は出来ず、また、ただ式から納得せざる負えなかった。けれど、布団に入った瞬間に、ふと浮かんだ考えが、理解の仕方が当たっているのかが分からないけれど、0.999…は1でしかありえない、と行き着いて、10年来の問題が解けたような気がした。解けてみると今度は1が気になり、どうして1+1=2なのか、と退行しているような問題に突き当たって、1+1=2って証明できるのかしら、と布団から這い出して調べてみると、700ページ使った、とか、大学ノート1冊分、とかいう記述を見つけて流石にこれは手に負えそうに無い、と悔しさを抱えたまま布団に潜った。朝、起きてみると、更に0って何だ、と気になっていた。
人が人に対して、間違っている、なんて言えるのだろうか。それは何かに反しているだけであって、間違っているのではないのではないのか。それは自分だけが認められる過ちなんじゃないか。1が1足り得るべき理由を提示出来なければ、結局間違いの根拠なんて無く、ただ中空に浮いている一般を風船の紐でも引っ張るように手繰り寄せたいだけなんじゃないか。とか言ってるときりがない。間違いの対義語は…。
鞄の中に入れっぱなしだった本を、雨の通勤や移動の多かった今日、一気に読み終える。いつもだったら新刊の時に買ってしまう作家だったが、ペラペラと捲った感じからこの本は文庫になるまで手を出さなかった。内容そのものから、というよりは、曖昧な俯瞰図を見ているような文体だったからだと思う。実際、読んでみてもその印象は強かったけれど、実験的な作品と位置付けられているからだろう、物語を文体から作っているのだと読み終えてから納得した。
俯瞰というある種神的な視線と主婦の井戸端会議的な視線の行き来を読むのは気持ちが悪い。でも、現実は遠くもない。極端にいってしまえばGoogleがサービスとしてそんなものは無料で提供していて、それを、これはすげぇ、と言って、気持ち悪がりもせず、逆に便利だと言って疑問も持たずに利用している。社会は始めからそんな場所だったから、自然と体感出来るのだろうけれど、それまでの、不便な社会、を知らない。それが少し恐くなる。
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これまでも幾度も手を出し、その度に挫折感さえ味わう事なく忘れ去られ、再び目にした時には既に年が変わっている、というスケジュール帳に懲りずにまた手を出す。経験上、使わないことを分かっているからそんな気もなく、どんなものがあるのだろう、と見ていたのだが、MOLESKINのものが半額になっていて、まぁこの値段なら、と。こういうものは持った時点でどうしても満足してしまう。帰宅してビニールを剥ぎ、よし、と机の上に置く。置いたまま少しずつ少しずつ隅へ追いやられ、隙間からポトンと落ちる。そして年を跨ぐ。そんな先が読めるので、今回は予定にもならない用事を取りあえず書き込む。が、それさえ殆ど無い。そもそも予定を出来るだけフリーにしたい、というのが性分だったと、今はまだ雇われの身だしな、ということで隠す。
携帯でメールをすることはあまり無いのだけれど、久しぶりにしっかり返そうという気になって打っていると、相手の過ごす空間が洗濯物に隠れた窓に映る。部屋の片付けをしている姿が映り、まだ送信していないメールが届き、片付けが一段落してやっと手に取る。返信文を考える間もなく打って送信する。そして画面の外に消えて行く。気にもしていなかったけれど、メールは時間を共有しているようでいて、それはただ画面を共有しているだけだった。ただまぁでもその向こうに相手が見えるのか。