見知らぬ地で、程々に酒に酔った頭で、パソコンのモニタを眺めているうちに寝てしまった。起きてみると、テレビでは眠りに落ちる前と変わらずオリンピックの野球が流れており、時計を見ても30分程のことだったが、何故ここでこうしているのだろうか、と掌の上に置いた圧縮させた時間を転がすように狭いシングルのビジネスホテルの部屋を見回した。何をしているのかも、何故ここにいるのかも、全てを分かっているのにどうしても腑に落ちない。取りあえず翌日の準備をしようと立ち上がると、全身にへばりついていた乾いた泥がボロボロと砕けて落ち、椅子を作っていたはずだ、という思いが旋毛のあたりに残り、それからまた土に染み込む水のようにゆっくりと身体を覆い始めた。翌朝は樹齢500年程の太い幹を手に入れ、継ぎ目の無い緩やかな曲線を座板としたベンチを作ろう、と浮かんだ瞬間に恐ろしくなって、風呂に湯を張り飛び込んだ。アルコールが蒸発していくと、浮かんでいた情景や暮らしが湯気となって消えて行く。風呂からあがると、まだ野球が流れていたが、どうやら日本は負けたようだった。
お盆は仕事で初めての盛岡へ。柏崎を訪れた記憶も新しく、震災の爪痕が残っているのだろうかと窓の外に目を向けるが、柏崎で見たような光景は無い。帰宅して調べてみると、建物被害が少なく土砂災害が多い、とのこと。二度目の東北だったが、やはり空が広くて近い。天候は一進一退を繰り返していて、仕事の上では生憎の天候と言わざる負えないようだが、個人的には美しい空を見られたと満足する。
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昨夜の雨の為だろうが、朝から肌に汗がべとつく。以前はこれ程に汗はかいていなかったから、これを思えば健康体になった、と喜ぶべきだろうか。夕方になるとまた雨の降り出しそうな雲が空を覆い始める。が、降らない。夜中の3時過ぎでも蝉の声の聞こえる場所だからか、まだこれからゆっくりと空を覆えるだけ覆って、また夜中に降り出すのだろう。
雨の多い街で暮らそう、と帰りがけに雨雲を見上げた瞬間、ふと浮かぶ。雨ばかり降っている街。太陽は雨の止んだ後の霧の向こうに、予感のように浮かぶだけで、また厚い雲に遮られてしまうような。じめじめとした部屋の中で、いつまでも乾かない洗濯物を吊り下げて、河口に近いだろう幅を持つ川の上を渡る小さな舟を窓からぼんやりと見ている。
話題のストリートビューで雨の降る街を探してみたが見つからない。探索能力が無かっただけかもしれないし、撮影時のハードの問題なのかもしれないけれど、どうせなら、雨や雪での風景も見られれば良いのに。
何時に寝ようが起きる時間が重要だよね、気分的には遅い時間に起きる程寝た気になるな、と考えながら、朝3時過ぎに事務所まで自転車を漕ぐ。新聞配達の人のように、1日を迎えた仲間もいるが圧倒的に、これから1日を終える人が多い。羨ましいというよりも恨めしいという気持ちで眺める。
初めて行った箱根だったが、避暑地だという割には予想以上に暑い。そしてコンビニが多い。仕事だからポイントでしか動いていないけれど、東京から近いから開発が進んだ為なのか、時期的に人が多い時だからなのか、人工的な、大袈裟に言ってしまえば、空気は都心と変わらない無機的な臭いがした。車を運転している感覚も、山を運転しているというよりは、山っぽい所を運転している感じだった。プライベートで来たらまた違うのだろうか、とも思うけれど、果たして今回の印象でプライベートで来ることがあるのだろうか。
雷が鳴り始めたので雨が降り出す前に東京へ向かう。途中、雨が降り出す。時間が早かった為か1時間ちょっとで都心まで戻れた。車を降りてもやはり身体が感じる空気は同じ。
盆休みが無くなった替わりの休みが二度の変更を経て、日曜からの4日間になり土曜の夜に長野へ。びんずるの直後に着いてしまったので、駅前はアルコールの匂いで満たされていて、気分が落ち込む。簡単に夕食を摂ってさっさと帰る。
休息をとるはずが、戸隠、新潟県(燕市まで)、上田、とカメラを携えて動き回っていた。だが、写真を撮る、というよりも、そこへ行く、という事が先行していたように思う。これは逃避だと、自身で気付くのは簡単だった。長期の休みになったらやりたい事もあったし、お盆に重ならなかったことで長野ですべきことも無かったのに、すぐに長野へ帰ろう、と思ったことからでも、帰りの新幹線の中で撮りたいものが何も浮かばなかったことからも容易に辿り着ける。ずっと何かを撮りたがっていたのに、その何かが分からない、というのは結構辛い。今回、色んな場所へ身体を運んで、その中で撮った写真を東京へ戻ってから眺めてみると、まぁ動いた割にはいつも通り枚数は少ない、ということが目立つけれど、何か、ということを意識していたお陰か、自分の写真が何を撮っているのかということを見られた。言葉にすれば、それはただ、光景、なんだと思う。現実、と言わなくても、マチダさんも言ってたように、気が振れてるように思われそうだ、と苦笑うしかない。けれど、まぁそうなんだ、と。でも、だから、写真で稼ぐのは自分にはやはり難しそう。これもまぁ苦笑うしかないことか。
時間は滞り無く刻々と消費されていくのに、言い訳を与えては何も生産しない休日。こんなはずじゃ無かった、と言っても慰めにすらならない。心も消費されていく。
午前中に妹から夏野菜セットが届いたので、久しぶりに料理でもしようかと夕方になって買い出しに出掛ける。料理と言ってもカレー。近所の商店街は夏祭りで人が溢れ返っており、通行も侭ならない。きっとでもこれは出店の匂いのせいだな、と焼き鳥や焼きホタテやビールやらに後ろ髪をひかれつつ、少しだけ安い駅前のスーパーへ。その前に本でも、と書店へ寄るが改装中。もう1件の方は立ち読み客が隙間無く並んでいて、本を眺めることすら出来なかった。部屋に戻り、野菜を煮込みながら、ここの所ずっとモノラルだったスピーカーを調べ、一度ラインを外して端子を新たに作って繋ぎ直す。ステレオに戻ったスピーカーの音を聞くと、以前はこんな良い音を聞いてたのか、と情けないような気持ちで喜ぶ。カレーはまぁ上出来。外食やコンビニ弁当ばかりだと、どうしても身体は食を感じてはくれない。摂取に近い。人の手で作る、その時のその場に並ぶ料理はゆっくりと身体に馴染む。
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