引き伸ばし機でプリントをしてみたが思っていた程の感動は無い。インクジェットプリンタで初めてプリントした時の方が感動していた気がする。ただデジタルプリントで抱えていた不満は欠片も無い。
考えてみれば幼い記憶にこの作業が残っている。薬剤の臭い、セーフライトの光、浮き上がる像。この感動の無い落ち着きは、だから安心感なのかもしれない。そもそもこれが写真だったのだから。そうやって記憶が始まっているのだから。モノクロを選んでいるのもここに原因があったのかもしれない。写真を嫌ったことによって大分遠回りをした。他の付き合い方があったろうか。そしてどこかの時点で同じようにプリントすることになっていただろうか。分かるはずもないけれど、まぁここまで時間を掛けなければいけなかったのは確かなように思う。時代の後押しも必要だった。成るようになった、と呆れつつ少々口角が上がる。
業務が立て込んでいるから作業の流れと結像の確認だけに止めようと思っていたが、気づけば6時間も経っていた。周りの方が薦めていた理由が良く分かった。経験しなければ見られないものがある。
撮影された写真を見る、ということ以外の写真に関することは全てが面倒だと言ってしまって良い。どこにも楽しみが無い。それでも再びフィルムで撮り始めたり、今度は引き伸ばし機を手に入れたりと、更に面倒な方へと着実に向かっている。デジタルで撮ってモニタで見れば簡単なのに、と思うのだけれど。見たい(若しくは読みたい)という欲望で支えられる行為に限りはあるだろうか。ただ、放り出すときは、諦め、のような気がしている。
譲ってもらったままほぼ三ヶ月使用されなかった引き伸ばし機だが、ゴールデンウィークに向けて暗室機材を一通り揃えて、さてやるか、という段になって、蛇腹に裂けている部分を見つける。少し指で押すと皮革がボロボロと崩れてしまうくらいに劣化はしていたから、何れ考えなければとは思っていたが、小さな穴とは違って修復は難しそうだった。蛇腹を発注するにしても専門業者に依頼するしか無さそうで、しかも中古の引き伸ばし機が手に入れられる程にお金が掛かる。それならば別の引き伸ばし機を手に入れた方が良さそうだな、とネットで探していたが、何れにしても今のままでは使い物にならないなら、と夜中になって蛇腹の自作を始める。調べてみると、元の蛇腹から型を取るか、必要サイズから蛇腹の幅や高さ、角度を計算、とのこと。計算は何だか大変そうだから、と型を取ろうとしたが、思っていたよりも蛇腹が劣化していて、殆どビルの爆破かと思うくらい取り外すだけでボロボロになった。破片から何とか大凡のサイズを測って、と言っても殆ど測れず、予測でイラレでそれっぽく製図すると何となくそれっぽくなった。幾つか普通紙にて試作を繰り返すと、徐々に形が整っていく。で、用意したケント紙を切り抜いて、パキパキと折ったら出来た。成り行きだったからサイズに甘い部分はあったがそれ程大きな違いは無く、内側につや消し塗料を塗って、外側に合皮シートを貼ったら製品かと思うくらい(体裁は)。実際に取り付けてみると光源漏れもかぶりも無くて問題ない。というか、使った時間を考えると、問題があったら裂け目を見つけた時ほどに悲しくなってしまっただろうな。
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今に始まったことではないが布団に入ってもなかなか寝付けず、部屋が仄かに青く染まりだした頃にやっと夢に落ちる日々が続いていた。長野に帰省してから緊急地震速報や余震で起こされることは無くなったが、どうにも苦い夢ばかり見る。昼頃なって漸く布団から這い出す姿には、でも快活さの欠片もなくて、戦場からやっとの思いで逃げ出した兵士さながらに疲れの果てあるようで、これならば寝ない方が良い、といつまで経っても布団に入らずにいると今度は頭痛が襲ってくる。
別に悩む必要など無いことだ。手を離しても何も変わらない。それでも、思惟に句点を付けられない状態に昼夜問わず頭を抱える。兎に角文章化しながら整理してみよう、とキーボードを打つものの、結局文章化出来ないから悩んでいるんじゃないかと気づくだけで終わる。そんな状態に陥らない為に、この訓練のようなログをもう既に6年も続けているのに一向に実になった気がしない。もっと楽しい文体にでもしたら、といつか言われた気がするけれど、そんなの整形しろと似たようなものだ、と、そうねぇ、と言いながら思っていた。
そんな日々の間にも心地良い目覚めに不意に出くわすこともある。そんな朝に停滞している思索を続ければ案外あっさりと片が付く気もするけれど、ちょっとした余裕(油断)を突いてささっと布で覆って隅っこの方に寄せて、散歩になんて出てしまう。思惟回路は取りあえず遮断させてしまった訳だから、後は感覚しか残らない。空が綺麗だなとか思いながら上を向いて歩き、保育園から聞こえてくる子供の泣き声が辛くて早足になり、珍しく嗅ぎ分けた花の香りに誘われて花屋に入ってしまう。だから帰り道はユリの花と歩くことになった。
花瓶に差して居間に置かれたその花は、他にも花はあるにしろ、兎に角目立ち皆に、どうしたの、と母が聞かれる。そうすると母が少し困ったような笑ったような顔をこちらに向ける。こちらに理由を聞かれても答えようもなく、そもそも答えてもらえると端から思っていないらしく、本人を脇に追いやって皆で首を傾げながら、28年の人生で初めてのことだよ、などと言っている。まぁ間違ってはいない。怪しむのも分かる。皆がいない隙に隠れて、窓際に連れて行ったり、廊下へ連れて行ったりして、カメラを向けているのだから。
じゃあなんだっていうとよく分からないけれど、ニュアンス的には、ポテも(とても、の活用形みたいな)サラサラしている何か、という感じ。
例えば苺が嫌いなパティシエが作ったデザートなのに何故か他のものよりも苺を使ったものの方が美味しい、ということはあるだろうか。人混みの苦手な人が渋谷のマックで執筆した小説が素晴らしかった、というのはありそうだ。そんなことをポテトサラダを食べながら考えていた。きゅうりが入っていなかったからかもしれない。その臭いだけで吐き気を催す程に嫌いなものだったポテトサラダ。でも考えてみれば嫌いだからこそ作り方を知っている。どうやったらこんなにまずいものが作れるのか、と。好きなもの程作り方を知らないのかもしれない。若しかしたら自分は世界一美味しいポテトサラダが作れる人間なんじゃないか、とちょっと考えてみたけれど、まぁあり得ないか。
欲望のイメージ(想像)が先行してその実が全く足りない、ということはよくあることだろう。こんなはずじゃなかった、みたいな。その逆に不本意な気持ちで進めたものが、あれ?良いじゃん、てことも稀にある。録音された自分の声を聞いた時のようにイメージがずれていても、それがより本質に近いものだったら、イメージなどにいつまでも拘っていては勿体ない。現実は違うのだから。
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日曜あたりからメールが不通だったようです。すみません。今程、復旧しました(3/22 19:11)。
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