周期があるのか精神的な影響なのか、たまに空を飛ぼうとする夢をみる。今回は東京らしいどこかのビルの屋上から。何度も同じ経験をしているから飛べないと分かっているのに、呆れながらもまた身体を宙に投げ出す。
初めてみたのは中学生の時だった。入ったこともない、あるのかさえ分からないが、通っていた学校の屋上だった。あの時は飛べると思っていたと思う。楽しくて笑いながら助走をとってた。結局、宙を蹴ることもなく頭から落ちた。落ちながら、今日は調子が悪かったのか、と頷いていた。地面に叩きつけられる前に人は気絶するんだ、と誰かが言ってたな、と安心しきっていた。胸の前で手すら組んでいた。なのにいつまで経っても気絶などせず、地面がみるみる迫って、迫る地面から目が離せなかった。叩きつけられる直前に夢から覚めた。
空を飛べないことを分かっていても地面が迫る怖さは一向に減らない。なんだか危ない気がする。
結局、休日を潰して物撮りを終える。理論だけでは難しい。経験もさることながら理論を実現させる役者も必要。でもまぁ限られた中で四苦八苦しながら撮っていくのもつまらないわけではない。けど、やはり面白くはない。
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8月に入ったのか、と思ったのが2日か3日あたりだったからそれから既に3週間近く経った。お盆よりやや早めに長野へ帰省して丸々2週間。これまでのような酒が残る飲み方もしなかった。でも大人になったというよりは、20代ながら老いたような気持ちが残る。そういえば甥がきゅうり馬を作っていたけれど、食べたいということでなす牛は結局送り盆になっても登場しなかったな。
夕食の続きのように、母が見ているドラマを一緒に眺めていたが、どれも最後まで見ることは出来なかった。台詞が説明的、というよりも説明に終始していて全くリアリティがない。殴った相手に殴った理由を一から十まで言うのか。さるかに合戦も猿と蟹が和解して終わるバージョンが今はあるらしい。時代に合わせて物語も変容していくだろうけれど、汚れたこと(と全てを見てしまうこと自体が問題か)を隠したものが物語と呼べるだろうか。求められていないのか。この国は人を育てることが出来ない。政治から娯楽、生活にしてもそう思うことが多くなった。理解させることにもっと重点を置くべき。理解出来ることが前提にあると、自身を否定することになる。
太陽に向かって大きく花開いているイメージの向日葵が、どれも小振りで太陽に背を向けて項垂れ枯れていた。
ここは蝉のいない土地なんだよ、と昼間に聞いて、あまり頻繁に足を運ぶ所ではないが、そうわれると鳴く声を聞いた記憶はない。まぁ元々、意識して聞いているような音でもない。でも東京へ来てからは、それを酷くうるさいと思うようになった。何匹も鳴かない。一匹だけ、鳴く。そこら中で鳴いてくれれば、夏の音として意識もしないのに、砂漠の真ん中で嘆いているのか、勝ち残った己を誇示して吠えているのか、兎に角一匹だけだからうるさい。でも地上に出てからの短い生命に、人間などに構っていられないのだろう。小便も引っかけたくなる。長野で住んでいたアパートでは、たまに玄関の前にポツンと動かぬ蝉が落ちていることがあった。いつどこで絶えるのかも分からない。そんなこと一向に気にもしない。鳴いて、嘆いて、叫んで、吠えて、ポトリと落ちる。理解など到底出来るものではない。朝方、また一匹、こちらの睡眠を妨げるように、うるさく鳴き出す。
使わない器官が退化するように、写真もきっと退化している。人はあまりにも創り出そうとし過ぎた。ような気がする。人は写真を人の言葉を伴ってでしか扱わなくなった。写真はまだ語っているのだろうか。もう小さな呻きしか発せられなくなってるのだろうか。聞く耳を既に失ってしまった。ような気がする。心臓を抉り出したくなるほどに、失った何かが分からない。

混んでいればどこでも良いから座りたいな、と思うのに、空いているとなんだかどっちでも良いやと立っていたりする。朝と夕のラッシュの丁度真ん中あたりだろうか、と昼過ぎの地下鉄に揺られていた。景色の変わらぬ真っ暗な窓をぼやっと眺めている。その中にふと知らぬ男の姿が浮かんだ。目の周りや額に深い皺が刻まれている。無精髭や頭髪には白いものが混じっていた。暗い部屋に、どこか小さな窓があるのか、そこからの強い光だけが差し込んで、斜めに顔を浮かび上がらせる。ペドロ・コスタの映画の一場面だろうか。俯き加減で視線は見るともなく、でも一点から動かない。そしてゆっくりと何か呟いた。
電車を降りてから何を呟いたのか、こちらの空想のようなものだから分かりそうなものなのに、少しも分からない。日本語では無かった気がする。英語でも無かった。ペドロ・コスタってことなら、ポルトガル語かスペイン語か。あいつは死んだのか。この町を出よう。神よ。プリンが食べたい。もしかしたら本人でさえ気がつきもしない呟きだったということもある。声にならずに口だけ震えるように動いていたような。嘆き、のような気はする。
つぶやき、と言ったら今はtwitterを思い起こす人が多いのだろうか。つぶやいてはみるもののこれが一体何なのか未だに分からない。イージーさに惹かれていたけれど、それも何だったのか。つぶやきが魅力的なのは、そこにその人がいるからで、情報だからではない。そこに人が見えなければ、0と1の羅列でしかない。まぁ見えることは見える。愛でも何でも、言葉ではなくてメールなりでの送受信で構わない時代だし。
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もうひとつ上に行けたな、と率直に思った。あと1試合このメンバーでこのシステムで戦えたら、そのことがそのまま力になるような気がしていた。まぁここにきて、ディフェンシブなシステムとは別にメンタルが保守的になってしまった。パススピードも遅く、ディフェンスラインは直前の負け続きの強化試合の時よりも高く保たれてはいたが、押し上げは遅い。ひとつひとつのプレーを大事にし過ぎていて、その後のプレーが頭にない。まぁその実力が出せない、というのが、今の実力なのかもしれないけれど、デンマーク戦やオランダ戦の時のような気持ちだったら、90分で勝つことも可能だったと思う。残念。
ただまぁ、開幕するまでは1分けすら厳しいと思っていたのに、2勝して決勝トーナメントに進んだ。延長戦に入ってからは、何ともワールドカップらしくて、感無量だった。悔しさを多分に含んだ落胆は何とも言い難く、爽快感に近いものまで感じる。ベスト16止まりだったけれど、でも、それを日本の自信にして良いと思う。選手の一人が言っていたけれど、その自信が次の力になる。希望しかなかった想いに期待を与えた。そしてきっと世界は驚いた。4年後が楽しみになった。
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ワールドカップ目前だから、連日どこかでサッカー特集をやっていて、その全てをタイムリーに見るわけにもいかないのでtorneが大活躍。今週末から1週間程また長野なので、その間を考えても、良い時期に導入した。オリンピックだとかの前にはテレビが売れるみたいだが、その気持ちがちと分かった。
先日、ベスト4という目標は曖昧で・・・、ということを言ったけれど、だからといって、優勝、と言えば良いかというとそうではない。日本の現実としてベスト4だって十分過ぎる程に高い目標。それを達成するためにこれまでがあって、もうちょっとあるけれど、でもそれが少しも近づいてこない。ただ何となくベスト4という目標を立てて、ベスト4に入る気持ちで取り組め、と言っているだけのような気持ちにさせられる。ベスト4と言ったなら、ベスト4に入るための行動が必要で、そうでなければ幼児が将来の夢に挙げるものと大差ない。何が不足しているのか、その不足を埋めるのか、長所で補うのか、勝って行くための実践が、その痕跡が見られない。結果は例え予選リーグ敗退でも良いと思っている。ベスト4を目指せるサッカーを見せて欲しい。そうしたら、ワールドカップ優勝を夢にしているこの国のサッカー少年たちが少しは救われるんじゃないか。
日本代表のここ2試合のオウンゴールでの失点が3点とか、まぁ珍しいことになっているけれど、流れの中で当たって入るというようなものだから、誰の点なのかということは問題ではない。ただオウンゴールが多い、というのは問題。自ゴールの方を向いてディフェンスしているということ。しなければならない状況を作ってしまっているということ。自分たちのゴールの方を向いてディフェンスしてるとか何なんだ、と。1対1で抜かれて追いかけてる、ってこともあるだろうけれど、ペナルティエリア内若しくは付近ではカバーリングが必ず入る。そのカバーリングする人さえゴールを向いてる。しかも、まぁこれは仕方がないけれど、真ん中の2人は前に行くプレーは強いのだけれど後ろ向きのプレーは非常に弱い。それを分かっているからなのか、ずっと問題だと思い続けているけれど、経過時間に比例してディフェンスラインが下がっていく。一番後ろの2人としては、自分たちとキーパーの間に相手が入ってくるのが一番恐い。しかも同じライン上のいたら相手の方が、足の速さが例え同じでも、前を向いている分早い。だから徐々に徐々に下がっていく。それでディフェンスと中盤の間にスペースが生まれて、そこで相手が自由にボールを触れたり、セカンドボールを拾われたり、と流れが相手に大きく傾く。で、結局、恐くてディフェンスラインを下げてるのにも関わらず、相手との距離も離れているから、といっても個人的には常に半歩くらい遠い気はしているのだけれど、ディフェンスに行くのが遅れたりプレッシャーが掛からなかったりで縦に行かれ、結果、センタリングを上げられ、シュートを打たれ、ちょっと当たってオウンゴール。ちょっと、っていう感じでも無かったのもあったけれど。得点力不足、とずっと言われているけれど、あのディフェンスをコントロール出来る人がいない、ってことが今の日本代表の一番大きな問題なんじゃないかと思う。熱いだけでも、ヘッドが強いだけでも駄目。ゲームコントロールくらい頭にある切れてる人じゃないと。あんなディフェンスで通用するリーグを抱える日本が世界を相手に簡単に得点できるはずはないのだから。
でも、今日のドログバの負傷退場(結局骨折)にはショックだった。仕方のない接触プレーだったにせよ(とも思えないが)、ワールドカップ直前の強化試合なのだから、行く行かないを判断して欲しい。逆に自分が怪我をしていたかもしれない。そんなことを恐れては勝てるものも勝てない、のかもしれないけれど、そういう状況になる前にすることが沢山あるし、あんなディフェンスになってしまうことを反省すべきだし、何のために戦っているのかを知るべき。まぁでも接触プレーも怪我も当然起こり得るスポーツ。接触してしまった闘莉王だけを非難する問題ではないけれど、ただ彼のオウンゴール後のあの苦笑いは許せない。ついでに、ベスト4っていう中途半端で曖昧な目標も。前回のイングランド戦は、負けたけれど久しぶりに良い試合だった、というような評価が見られるけれど、あの程度のイングランドに問題無く今勝てなければベスト4なんて見えない。最高のイングランドには勝てなくても良いってことでしょ、ベスト4ってことは。優勝目指してる国と同じ様なペースでの調整じゃあ予選突破すら叶わない。
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誰かと話をしなければならない日々ではないから、一言も発せずに過ぎる一日もある。言葉が他者との共通認識を持つ為にあるとすれば、だからまぁ尤もで、それ故、とだけとは言えないけれど、言葉を持つことが難しいと思うようになってきた。ただ好き勝手喋ったりするのは良いが、欲望のままに吐き出しているようなものだから、知らずに傷つけてしまっていることもあるし、限られたテリトリーの中でしか使えない。昔から携帯メールの返信が素っ気ないと言われ続けてきたけれど、これも含まれるだろう。けれど、その中でも自分の気持ちをそのまま伝える言葉は難しい。寄り添うような言葉は難しい。誤解を恐れて、取り繕うようになって話が長くなったり、多方面から言葉を持ち出して一語を囲むようにしてメールが長くなったり。
何となくテレビを見ていて、前の総理大臣は漢字が読めない、と叩かれていたな、と思い出す。でも、個人的には今の総理大臣の方が問題は大きいように思う。英雄像に自分を重ねて、それに酔って言葉を吐く。伝わる言葉では無いし、伝えようともしていない。言葉を使うことの重要性をちっとも理解していない。まぁテレビに出ている人が全般的にそうだから、テレビがそういうものなのか、若しくはテレビで文化がそうなってきたのか。かと言って、こちらがそれに倣って諦めたくはないから、28歳目前に、何か既に済ませておけよ、っていう言葉の問題で頭を悩ましていた。
結局、相手に寄り添うような言葉(この言葉自体が少々気持ち悪いけれど)は、自身を含んだ人というものを知らねば持てない。突き放すにしても、距離を縮めないにしても。でもまぁ言葉だけのことじゃないか。一人で生きられない限り、自分も相手も誰にも、フィジカルもメンタルもある。と、思いつつ幾つかのお祝いメールに、相も変わらず素っ気ない返信をして、誕生日も既に過ぎた。
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これまでも何度か立ち止まってはその値段から通り過ぎるしかなかった千疋屋へ、2月後半から3月いっぱい掛かりきりになった仕事の打ち上げで連れて行ってもらいご馳走になる。千疋屋総本店日本橋店。平日の昼間だというのに、ハイカラな老人やセレブな妻達で賑わっている。土日ともなれば並ぶほどになるらしい。不況だというのに。不況だからか。まずは調査しておいたプリンアラモード。プリンが美味しい。早々に平らげたこちらを見て追加でスペシャルパフェもどう?と勧められ、お言葉に甘えて追加注文。アイス美味しい。肝心のフルーツは、普段あまり食べないのでイマイチはっきりした感想が持てないけれど、嫌いの部類に入るバナナを折角だからと食べてみた。チョコが軽く掛かっていて、チョコバナナなんて信じられない、と思っていたのに、美味しい、食べられる。ただ、スイカなんかはやはり暑い夏に冷やして食べたいし、みかんは冬に炬燵に入って食べたい。千疋屋、という名前自体が、季節感の替わりになっているのだろうか。無駄に広くでかいビルに入っているのだから、もう少しスペースは欲しい。
予定より長く、結局2週間近く長野に帰っていた。一人で部屋にこもっている時間が長く、そのことに慣れているから、家族でも誰かがいる、というのは以前はちと辛い感じもあったのだけれど、それが抜けていた。既に妹二人もそれぞれの家庭を作って生活をしていて、頻繁に実家に顔は出すものの普段は母も一人。それぞれに言えないこともあるのかもしれないし、生活をともにしていないこともあるのかもしれない。帰った途端、次から次へと母は話を繰り出し、こちらは全く訳の分からないテレビ番組をぼんやりと眺めながら、聞いている。ある程度話し終えると、ふと時計を見て、今日も寝るのが遅くなった、と風呂に消えていく。こちらも、部屋に戻り持ち帰ったラップトップの前に座る。風呂から上がったような音がしたなと思っていると、スッとドアが開いて、風呂で思い出したのか、追加の話をしておやすみと消えていく。何となく、ふーっ、と息をつくような気になって、再びパソコンに向かう。そんな日々は、でも、こちらには思いの外大きく響く。東京に戻ると、そうやって話す人は部屋には勿論いなくて、といって別段欲しいとも思わないけれど、長野を発った時から寂しさを少し引きずっている。
なかなか肉の付かないこの身体に寒さは大分堪えるけれど、冬は良い。長野の天気予報にはまだ雪マークが付いてはいるが、想像しても、窓に当たった瞬間に水滴となるような霙で、パサッ、とか、カッカッといような音のする、これから積もりますよ、という雪ではないことに、冬は終わったのか、と少し寂しくなった。
木枯らしが吹く頃には心が浮つき始める。毎日天気予報をチェックして、北海道、東北と行く予定もないのに雪マークが付いていないかと巡り、ライブカメラを見る。何に呼ばれているのか、まぁ雪ということになるだろうが、何となく見に行かなきゃ、という気になる。東京では降らないのに、空を見上げたりする。
世界が終わる前ってこんなものじゃないか、というような静寂感。凍てつく大気に肌を晒して白い息を吐く。灰色の空から大粒の雪が真っ直ぐに落ちてくる。
暖かさ、を作るのが冬だけだからだろうか。失った世界で得るものが大きい。満たされないことが満ちていく。
季節が逆戻りしたような気温の冷たい雨の中、靖国通りの桜は既に咲き始めていた。雪はもう降らない。桜の花びらと一緒に冬を剥ぎ取るような強風に、毎年、春が来たな、と実感している。
2年ほど前に知って、今年こそと心に誓った冬の終わりに催される山村での行事は、今年も仕事で見送りとなってしまった。その仕事も納品となり、来週、長野へ行くけれど、冬を既に仕舞ってしまった気持ちは、どうか寒さが残ってませんように、と都合よく願っている。
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