ヨウ
届いたままテレビの横に置かれていたアイロンと朝の詩人を捲る。日本語への嫌悪感は治まったものの、文字の意味が全く掴めない。あぁ、成る程、昨日英語に行き着いたのはこの為か、と思い至った。脳が文字の意味を拒否していた。単なる記号だろ、記号、と。だから、英語の、というかローマ字の一字だけでは意味をなさない、シンプルな記号を選んだのは自然な流れだったのかもしれない。事実、英語が読めないなんてこれっぽっちも思っていなかった(実際は辞書がなければ読めないけれども)。漢字はそれだけで意味がある。ひとつとは限らず複数あったりする。ひらがな、カタカナだけだったらまた違ったかもしれない。
ページを捲る手が5分以上動かない時もあったと思う。一字一字を確認しながら、読んだ端から抜けて行く言葉を繋ぎ止めながらゆっくりと時間を掛けて読み進めた。そのうち五文字読める様になり、十文字読める様になり、一行読めるようになる。日本語の記憶方法を一から習得しているような感覚。でも確か文字って書いて覚えたよな、とも思う。書く事をしなくなってかなり経つ。その間に、字を書くよりもキーボード入力の方が早くなり、記憶を記録としてハードディスクに委ねることの不信感も殆ど無くなった。こうやって忘れて行く。ただこれが悪いとは思わない。簡単に言ってしまえば、そういう時代だし、忘れてしまうような言語は他の言語に淘汰されても良いと思う。寧ろ、地上に国境の無い、海に隔てられているこの国にとってはその方が良いんじゃないかとも思う。
結局、半日程かけて読み終えた。落葉を乗せてサラサラと流れる小川のような文章が心地よかった。