undergarden

最近、最後にと残しておいた好物を掠めとられそうな予感に焦っているのかもしれない。1ヶ月程、茶を習いたい、と言い出すと、その途端に呆れられてしまう。全く持って真意を伝えられていない言葉にその真意を瞬間的に汲み取っての呆れには恐れ入るが、でもまだこの時はその真意さえも自分自身では掴めずに、やはり作法のことを言っていたと思う。知らぬ間に絡んでいた結び目をひとつひとつ解いていくと、成る程、これは呆れるわ、と納得した。
茶はただ茶でしかない。人もまた然り。そこに作法などいらない。でも、想像すると茶室は不思議なところだ。茶室という空間に過不足なくおかれたモノが、それぞれに敬い、溶け合い、透き通って初めてそれぞれが輪郭を持って作られる。その中で不自然に振る舞えるのは人だけで、だから作法がある。一瞬という永遠、永遠という一瞬の流れを塞き止めないように。
取りあえずは、心の中に茶室を作りなさい、と助言を頂く。これはなかなか難しい、とまずは正座の出来ない身体を何とかしようと、座布団を敷いて、正座をしながら本を読むことを始める。
茶の流れから、岡倉天心の茶の本を抜粋、意訳した本のお茶を読む。どうも意訳し過ぎていて、本来の意味が少し変わっているように思えて、青空文庫で公開されたばかりだった茶の本を読む。正座して。


久しぶりにフィルムカメラを手に取ると、フィルムが装填されたままだったので、デジタルカメラと一緒に持ち出して撮りきって現像に出す。上がってきたプリントを見ていると、徐々に死者の眺めを見ているような感覚になる。若しくは死を穏やかに迎えるような。

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