2月12日から13日
どんな言葉があるのだろうか、と一日中考えていたが、どの言葉にも責任を持てない自分を幾つも重ねるだけだった。たったひとつの言葉でさえ、どの方向にも、どんな形にも、広がっていく。結局残ったのは悔しいという内側に向ける言葉で、この言葉の傲慢さに気づいた途端に発する言葉を失った。
あ、と言えば人は振り向くかもしれないし、い、と言ったらどこか痛めたのかと聞くかもしれない。う、と言ったらトイレはこっちですと教えてくれるのかもしれない。
振り向いた人は、でも次の瞬間転んで大怪我をするかもしれない。痛みを心配した人は、でも次の日にそのことから小説でも書いて、数年後には映画化までされているかもしれない。
音には数えきれない程の可能性があって、でも、言葉はそこに少しの方向性を与える。文章はそこに奥行きを与える。僕らが話す言葉はだから、やはり恣意的であって、それを今回は拒否していた。方向性が示されるのを恐れて、等しく均等に広がる言葉を探していたのかもしれない。そんな言葉は無い。
何れにしても相手がいてのことで、方向性を与えても影響は何もないかもしれないし、もし全ての可能性が残された言葉があったとしても、煙と変わらないくらい、吹いて消されてしまうものなのかもしれない。でもだからといって言葉を諦めたら、それ以降はもう口を開けなくなってしまう。
結局、今回はそんな機会も無く、手の届かない(伸ばさなかっただけか)所を通り過ぎて行った。ただ悔しいというのは強く残る。