穢土っ子
受け取ってしまったものの、どう返そうか、とずっと悩んでいた。心意気、のようなものを見てしまい、いえ、と拒むのは突き返している気がして、かと言って、ノーサンキューじゃ伝わらない、とこちらは信濃の田舎者だけれども、粋な返し方をずっと模索したまま結局持ち帰る。帰ってしまえば案外楽になるかもしれない、と帰路は呪文のように唱えて戻りそうになる足を運んだが、帰っても、今更粋なんてこともないのにやはり考え込んでしまう。突き返してでも置いてくるべきだったんじゃないか、と悩むうちに瞼が落ちた。眼を覚ますと、ここから、と開き直っていた。
藤井さんの個展の撮影後、機材を持っていたので、雨宿りと数時間画廊にいて、ドローイングを見ていた。こちらは描くことをしないからか瞬間的に、どうだ、と判断してしまう癖があり、じっくりと見ることは少ない。まぁだから描くということをしないのかもしれないけれど、でも、じっくりと見ていたら、作品が腑に落ちるというか、じわり身体に馴染んでくる。それを見つめる様に確かめていたら、時間が行きつ戻りつして、ともすれば生と死、死と生を跨ぐ。平等だったり不等だったり、欲望であったり理性であったり、もうやめて、という程にぐちゃぐちゃになっても、静かな直線になっていたりする。描いているとき、それは人だろうか、と何とも言えない恐ろしさがあるが、身を慄わすのは収集の付かなくなったこちらの欲望で、その感じがどこか甥がおもちゃ箱をひっくり返して端から端まで手をつける姿に重なって、健やかだな、と思いながら、あれもどこか人ではない、鬼のような気配があるな、と幼児を思いながら死に迫った。
言葉の無い時代、人はどのように思考したのだろうか、と夕方前からちびちびと始めた酒宴を終電近くの電車に乗り、本を捲っている時に浮かぶ。酒は入っているが、身体をそれ程までは巡っていない。考えれば考える程に、言葉で思考してしまうから、考えることすら出来ない。伝えることは出来るだろう。でも、その為の思考をどうする。反射の繰り返しが似た形になるのだろうか。見たり、聞いたり、触ったり、と感じはしているはずで、それを反射だけで処理したのだろうか。感じたことがそのまま思考なのかもしれない。言葉を持ってしまっては、到底遡ることは叶わない。ただ、何となく、写真はその言葉の無い思考の近くに置けるもののような気はした。言葉は無くとも、語る言葉は写る。それを言語化出来なくても感じる。感じたものがその写真で、写った言葉だろう。多角的に眺める事を始めから捨て、結局決めてあったような所に辿り着くとは、ちびちびとでも飲むものは飲んでいて、酒が巡らずとも蓄えられていたのだろう。呆れもせずに、満足している。