undergarden

日蝕

日蝕そのものを見る気はなかったが、晴れていればどこか木陰にでも行って影を見ようと思っていたものの生憎の雨。ネットとテレビで各地の状況を見る。テレビはしかし、どうしようもない。理解を超える下らなさ。目の前で人が刺される瞬間をワクワクと、初めて見ます、楽しいことなんですよ、と伝えているのと変わらなく見える。日蝕を呪いだ、祟りだと恐れた過去よりもよっぽど気が振れている。30万以上という離島ツアーは暴風域に入ってしまい、散々だったようだけれども、ダイアモンドリングよりも皆既日蝕ゾーンの白昼の闇を体感したということが、そちらに惹かれてしまっているからだろうけれど、大きいように思う。
キッチンの電気をつけようとして伸ばした手が、垂れ下がった紐を掴む直前でふっと止まる。首を傾げる。疑問ということではない。すっと実感が遠のく。10年前にも同じ所で止まったよな、と懐かしさが指先から広がる。10年前は高校生だし、こんな所にいたはずもないのに、暫し、眼が、無いはずの過去を探ろうとする。現在が現在に収斂して、中空に紐を掴む形のままの掌を再び伸ばして掴むと、今度は疑問が浮かぶ。いつも、ここを掴んでいただろうか。それから、日常の至ることが気に掛かる。トイレはどちらの足から入っていたか、とか、鍵は右手だったろうか、とか。日常の気にも止めていなかった繰り返しが、どこかで小さくプツリと切れる。後は、連鎖してプツリ、プツリと切れていく。

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