色リオ
フィルム枚数表示部を見ると23だったので、自分の痛々しい足の爪を手を伸ばして撮る。最後の1枚だ、との思いは呆気なく無視されフィルムは巻き上がらない。もう一回シャッターを押すとフィルムは巻き上がった。最近かまってあげてなかった事への腹いせか。
いつ装填したフィルムだったろうか、と現像に出した帰りの車中で考える。何を撮ったのかすらあまり覚えていない。空に向ける事が多かった気がする。特に撮りたいわけでもないのだけれど、そこにカメラは向いた。撮る対象がいないからか、それが撮る対象だからか。対象と対峙する事が億劫だったのかなぁ、という思い。なんて哀しい。対象、対象じゃない、とかではなく、やはり、撮りたいから撮るんだろう。その欲望への責任が瞬間を捉える、と言ったらかっこつけすぎ…かね。
長い時間リンクを無作為に辿る。色々な人がいるなぁ、と思う反面なんかその個性が凡庸に見えてしまったりする。自分でもよくわからない矛盾。個性を出す、って行為を凡庸だと感じているのかしら。個性は個性でしかない。定義なんて出来ないし、だから人はそれを認められるんじゃないだろうか、と思う。