引っ越し
悲運としか言えないが、急遽決めなければならなくなった実家の引っ越しで3連休は長野へ戻る。電話で半分近くは捨てた、と聞いていたが、帰ってみるとそれでもこれだけあるのか、という段ボールの山。でもそれよりも、2階から洋服ダンス、和ダンスを降ろすのに義弟とその友人との男3人掛かりで苦労する。運び入れた時の記憶は既に無く、狭い階段で抱えながら、向きを変えながらこの向きなら抜けるか、と試行錯誤。もう大怪我寸前という所までそれぞれ体験した。自分の荷物に関しては、運ぶ前に帰る時間を作れなかったので、全て任せて、取りあえず運び入れてから選り分けるということになっていたのだが、こちらは思ってたよりも少ない。考えてみれば、引っ越してから私自身は殆ど住んではいなかった。もう社会人目前という時期だったこともあろうが、住んだのは実質的には1年程度だったと思う。事ある毎に帰ってはいたが、それでも、生活をしている帰る場所は別にあり、おやすみ、と言って自分の部屋に戻るのではなく、じゃあね、と玄関を出るから置いていくものも置いておくものも無い。生活していた証しとして残っているものは専用の食器くらいで、それが何となく淋しいようで、母は迷惑がるだろうけれど、もう少し荷物を置こうかな、と思ってみたりする。
どこへ出かける訳にも行かないけれど、過去と現在を行き来していた週末は、筋肉痛と埃からの鼻水くしゃみにいつも通り考え無しの薄着からの風邪が身体に残った。ただ、ちと来月からのことを考えて焦燥していた気持ちが少しは楽になった感じはある。まぁ焦燥してなければならないといえばならないんだけれど。
知るということと分かるということは違って、また、分かると理解ということも違う。勿論、知ると理解も違う。何が良いのか分からないけれど、流れを掴んで知る/分かる/理解する、ということが必要か。