蛇腹
撮影された写真を見る、ということ以外の写真に関することは全てが面倒だと言ってしまって良い。どこにも楽しみが無い。それでも再びフィルムで撮り始めたり、今度は引き伸ばし機を手に入れたりと、更に面倒な方へと着実に向かっている。デジタルで撮ってモニタで見れば簡単なのに、と思うのだけれど。見たい(若しくは読みたい)という欲望で支えられる行為に限りはあるだろうか。ただ、放り出すときは、諦め、のような気がしている。
譲ってもらったままほぼ三ヶ月使用されなかった引き伸ばし機だが、ゴールデンウィークに向けて暗室機材を一通り揃えて、さてやるか、という段になって、蛇腹に裂けている部分を見つける。少し指で押すと皮革がボロボロと崩れてしまうくらいに劣化はしていたから、何れ考えなければとは思っていたが、小さな穴とは違って修復は難しそうだった。蛇腹を発注するにしても専門業者に依頼するしか無さそうで、しかも中古の引き伸ばし機が手に入れられる程にお金が掛かる。それならば別の引き伸ばし機を手に入れた方が良さそうだな、とネットで探していたが、何れにしても今のままでは使い物にならないなら、と夜中になって蛇腹の自作を始める。調べてみると、元の蛇腹から型を取るか、必要サイズから蛇腹の幅や高さ、角度を計算、とのこと。計算は何だか大変そうだから、と型を取ろうとしたが、思っていたよりも蛇腹が劣化していて、殆どビルの爆破かと思うくらい取り外すだけでボロボロになった。破片から何とか大凡のサイズを測って、と言っても殆ど測れず、予測でイラレでそれっぽく製図すると何となくそれっぽくなった。幾つか普通紙にて試作を繰り返すと、徐々に形が整っていく。で、用意したケント紙を切り抜いて、パキパキと折ったら出来た。成り行きだったからサイズに甘い部分はあったがそれ程大きな違いは無く、内側につや消し塗料を塗って、外側に合皮シートを貼ったら製品かと思うくらい(体裁は)。実際に取り付けてみると光源漏れもかぶりも無くて問題ない。というか、使った時間を考えると、問題があったら裂け目を見つけた時ほどに悲しくなってしまっただろうな。
デジタル写真というものはある種、人の抵抗(あるいは逃げ)、とも言える。コード化出来ない光の具現化情報(それをただ見て意味とともに読める力)をデジタル処理をすることによって理解出来る形にする。記録という意味においては最適だろうけれど、何かを感じる、ということは難しくなる。もしそれでもデジタルで全て!が理解出来るということなら、それは感情も0と1だけに変換出来るということにもなる。小説や音楽は盛んにデジタル化されているけれど、やはり本を捲る感覚や直接耳で聴く音は違うだろうし。だからって、アナログだから良いと思っているわけではない。ただ全てがデジタル化されるならば、身体もデジタル化されなければ片手落ちだろう、とは思う。