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拾ったはずの文字が次々と消え、半ページ前のことすら記憶に繋ぎ止めておけずに本を捲る日々は、それでも時期的な問題と捉え、敢えて注釈を一々開かねばならない学術書を手に取ったが、一行すら進めない。何度も返る有様に、まるで漢文のようだと自嘲するも、意味すら取れずにただ反復しているだけとなれば、その余裕も失われる。いつからだったろうか、と思い返しても、明確に分かるはずもない。遣る瀬無い想いは、瞬間的な感情に身を浸すのには十分な理由であったと思う。そこから抜け出せなくなるとは思ってもみなかったが。
恐れを、それが歳を重ねるということだと受け入れてきたが、知らぬ間に恐れを恐れていたようだ。毛細管を伝う血液のように重力にさえ逆い全身に広がっていた。世界が崩壊する夢をみても、誰がそれを持ち続けていられるだろうか。でも、確かに、そのような世界の上に立っているのだ。そんなことすら知らなかったのか、という声に、ずっと手の中にあった、と傲慢にもこたえるのが私だった。気づけば、この身体は鏡に映らない。手を伸ばしても、そこには主張すらしない境界が絶え間なく存在するだけだ。
某企業CMではないが、努力が報われるとは限らないし、積み重ねてきたものも崩れてしまうこともある。それも一瞬と感じられる早さで。もしかしたらその時、世界を最もよく見ることになるのかもしれない。恨めしいほどの美しさと正しさで。
ワールドカップが掲げられる姿を見ると、4年後もまた観られるだろうか、と毎回思う。それは、大袈裟に言えば、科学者が未来を求めるのに似ているように思う。前大会でほぼ決まっていたようなドイツサッカーの優勝を次はどこかどう超えるのか。それは、きっと日本ではないが、可能性の芽がフィールドに顔を出すことに期待はできそうだ。今大会の驚きはしないが残念ではあった惨敗という結果は、それでも、ひとつの思想を植えつけたと思う。それは、サッカー後進国であったこの国において最も必要だったことだ。勝てはしなかったけれど、その貫いた姿勢は、これまでよりも魅力的に見えるし、それが、若い世代を育てるのだと思う。元々強豪だったドイツだって、10年の月日を掛けてここまでのサッカーに辿り着いたのだから。そのうち、失点に涙する日本人の姿が映される。私はそれに涙してしまうと思う。