本当に寒いよ、と何度も念を押されていたから、昼間の東京には流石に暑いな、という格好で帰ったのだが、長野に降り立つとすぐに震えが始まった。車窓から見える風景に秋もそろそろ終わりか、と思っていたが、もう冬に入っている。方々で志賀高原では既に初雪があったと聞く。
密かな企みを持って荷の底に詰めたビデオカメラは、結局5分程しか回さなかった。1年以上触っていないし、持ち歩いてもいなかったから、持ち帰ったことも殆ど忘れていた。帰宅直前の午後に思い出し、信濃美術館へ行った帰りにそのまま屋代の田園地帯まで足を伸ばして狼煙を探すが気に入ったものが上がらなかった。ふらふらとしているうつに森将軍塚古墳を真似て作ったというにしては小さな展望台のある公園に辿り着き、仕方なしと操作を思い出す程度に暫く回した。後は断片。不満の残る形で東京へ戻り、テープを再生してみると、でも、そこには自分の映像が映っている。写真よりも映像に自身が映っている。だから、こんなんじゃあ金にならない、と思う反面、これで良いじゃん、と思ってしまう。
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やはり、疲れているからだろう、気付けば垂直に近い角度で地面を見つめている。過ぎた筈の夏を引き戻したような鹿児島、沖縄から清里を訪れると、厚着をしたと思っていた身体を震わす程に季節は冬に向かっていた。山間の雲は重なったり離れたりと、視線の先に映る自分の影の濃淡を刻々と変えていて、ふと、子供の頃も同じ様に影を見た事があったな、と10秒間見つめて空を見上げてみる。そこに映るはずの影はない。こちらも疲れからだろう、ここの所、たまに少し白く靄が掛かったようになる視界で見えないのか、と暫く目を閉じて、再び試みたがやはり映らない。大人になると見えなくなるんだよ、とドラマやアニメのように耳元で囁く子供の自分が憎たらしい。振り払っては忘れ、気付けばまた影を見て空を見上げる、という事を何度も繰り返して、そろそろいい加減諦めろよ、と聴こえた途端、空に白くぼやっと影が映る。きっとずっと映っていたのだろうと思う。ただ、影だから黒く映るのだ、と思い込んでただけで。今度は今の自分が、大人になると見えなくなるんだなぁ、と呟く。
日にち自体に意味を持たせないようにして過ごして半月ちょっと。仕事ばかりしていて、自分の生活が成り立たなくなってきた。休みも期待しなくなったから、全てが止まったように動かない。得てる事もあるのだろうけれど、それが反復であり、その為にある程度レスを自分で与えてしまっているから、じゃあ後はどう実践するかの問題で、現状、こちらにも意味を持てないでいる。
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行く暇も無いし、そもそもが苦手だから、と美容師に、もうちょっと、もうちょっと、と重ねて久しぶりに髪を短く切る。普段からあまり鏡を見る方ではないけれど、ふと視界の隅に映る姿が何とも気恥ずかしく、更に鏡から遠ざかりそうな気はするが、でも見慣れぬ姿にまぁ何か少し楽しくもなる。
プリンタの調子が良くないな、と以前から思っていてはいて、でも今はそれ程にプリントするものも無いと脇に置いていたが、いざプリントしようと思うと、やはり調子は変わらず、全体にマゼンタ掛かってしまい、これも安く中古で買ったものだから、と店頭へ行ってプリントサンプルを見比べてから新調。精度の違いは明らかで、色調も思っていたものに近くプリントはされたが、やはり、これはプリンタの問題では無くてモニタの問題だろうけれど、見ている色とは若干ずれる。プロファイルを作れば何とかなりそうだけれど、何れにしても使い倒し気味のノート端末は最近悲鳴を挙げ始めてハード側が壊れ始めた。まだ取替え可能部品だったり、外付けで何とかなりそうなものなので堪えてはいるが時間の問題か。
いつの間にか9月も下旬に入っていて、事務所から見えるつい先日まで底の水色を反射させていた小学校のプールも既に緑色になってしまい、自身の服装も知らぬ間に夏を後ろへやっている。そうやって春も夏も過ぎて、秋も同じ様に過ぎそう。無意味なことと無駄なこととは違うと思っていても、その区別が付かないから、結局無意味に落ちてしまう。そしてこれもまた無駄なんじゃないか、とも思う。
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前歯の隣の歯間に異物が入り込んだ感触を舌が感じ取って、楊枝で掻き出そうと試みたが楊枝の先が歯間に詰まってしまい、間抜けさに呆気に取られる。詰まった楊枝を楊枝で掻き出したが違和感は残り、過ちを繰り返すのはそれこそ間抜けだ、と歯ブラシで20分も30分も磨くが効果無し。耐えられないとコンビニまで行き歯間ブラシを買ってきて漸く異物など無いことをしぶしぶながら納得させた。シャワーを浴びて出てくる頃には、しぶしぶささえ忘れていた。
果ての闇を抱き込んでしまったような夜に、バスが2時間に1本通るような田に挟まれた道を行き来する高校生の少年が浮かぶ。浮かぶというよりは、それを、道に平行に、地面に水平垂直に立てられた固定カメラから覗いているような。大体が同じ、何かを考えてるような考えていない様な、前を見ているようで見ていないような顔だったが、見続けるうちにその変わらない表情の中に表情を見る事をし始める。たまに自転車をひいている時もあったり、傘をさして歩いていたり、バスに乗っていたり、立ち漕ぎをしていたり、荷台に人を乗せていたりする。ただ行き来を繰り返すだけの光景に、あぁ、これは記録映像なんだと気付く。白い息を吐きながら変わらない表情で少しだけゆっくり自転車を漕ぐ少年でこれは終わる。ここが果てなんじゃなくて、ここからが果てなんだ、と抱き込むまでもなく広がっていた暗闇に、なぜこんなにも幸せなんだろう、と叫びたくなった。
物語は泣く瞬間ではなくて、つまらない間にあるんだよねぇ、とぼんやりと考えていたら、テレビから、身近なことを撮りすぎている、という声が聞こえて視線をテレビに移すと、奇抜な映画で好評らしい映画監督が、もっと大胆に例えばスピルバーグのような映画を撮りたいとか…、と続けていた。身近なことってそんなにも撮られているだろうか。
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最近、最後にと残しておいた好物を掠めとられそうな予感に焦っているのかもしれない。1ヶ月程、茶を習いたい、と言い出すと、その途端に呆れられてしまう。全く持って真意を伝えられていない言葉にその真意を瞬間的に汲み取っての呆れには恐れ入るが、でもまだこの時はその真意さえも自分自身では掴めずに、やはり作法のことを言っていたと思う。知らぬ間に絡んでいた結び目をひとつひとつ解いていくと、成る程、これは呆れるわ、と納得した。
茶はただ茶でしかない。人もまた然り。そこに作法などいらない。でも、想像すると茶室は不思議なところだ。茶室という空間に過不足なくおかれたモノが、それぞれに敬い、溶け合い、透き通って初めてそれぞれが輪郭を持って作られる。その中で不自然に振る舞えるのは人だけで、だから作法がある。一瞬という永遠、永遠という一瞬の流れを塞き止めないように。
取りあえずは、心の中に茶室を作りなさい、と助言を頂く。これはなかなか難しい、とまずは正座の出来ない身体を何とかしようと、座布団を敷いて、正座をしながら本を読むことを始める。
茶の流れから、岡倉天心の茶の本を抜粋、意訳した本のお茶を読む。どうも意訳し過ぎていて、本来の意味が少し変わっているように思えて、青空文庫で公開されたばかりだった茶の本を読む。正座して。
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