undergarden

スケジュール帳

これまでも幾度も手を出し、その度に挫折感さえ味わう事なく忘れ去られ、再び目にした時には既に年が変わっている、というスケジュール帳に懲りずにまた手を出す。経験上、使わないことを分かっているからそんな気もなく、どんなものがあるのだろう、と見ていたのだが、MOLESKINのものが半額になっていて、まぁこの値段なら、と。こういうものは持った時点でどうしても満足してしまう。帰宅してビニールを剥ぎ、よし、と机の上に置く。置いたまま少しずつ少しずつ隅へ追いやられ、隙間からポトンと落ちる。そして年を跨ぐ。そんな先が読めるので、今回は予定にもならない用事を取りあえず書き込む。が、それさえ殆ど無い。そもそも予定を出来るだけフリーにしたい、というのが性分だったと、今はまだ雇われの身だしな、ということで隠す。
携帯でメールをすることはあまり無いのだけれど、久しぶりにしっかり返そうという気になって打っていると、相手の過ごす空間が洗濯物に隠れた窓に映る。部屋の片付けをしている姿が映り、まだ送信していないメールが届き、片付けが一段落してやっと手に取る。返信文を考える間もなく打って送信する。そして画面の外に消えて行く。気にもしていなかったけれど、メールは時間を共有しているようでいて、それはただ画面を共有しているだけだった。ただまぁでもその向こうに相手が見えるのか。

2月12日から13日

どんな言葉があるのだろうか、と一日中考えていたが、どの言葉にも責任を持てない自分を幾つも重ねるだけだった。たったひとつの言葉でさえ、どの方向にも、どんな形にも、広がっていく。結局残ったのは悔しいという内側に向ける言葉で、この言葉の傲慢さに気づいた途端に発する言葉を失った。
あ、と言えば人は振り向くかもしれないし、い、と言ったらどこか痛めたのかと聞くかもしれない。う、と言ったらトイレはこっちですと教えてくれるのかもしれない。
振り向いた人は、でも次の瞬間転んで大怪我をするかもしれない。痛みを心配した人は、でも次の日にそのことから小説でも書いて、数年後には映画化までされているかもしれない。
音には数えきれない程の可能性があって、でも、言葉はそこに少しの方向性を与える。文章はそこに奥行きを与える。僕らが話す言葉はだから、やはり恣意的であって、それを今回は拒否していた。方向性が示されるのを恐れて、等しく均等に広がる言葉を探していたのかもしれない。そんな言葉は無い。
何れにしても相手がいてのことで、方向性を与えても影響は何もないかもしれないし、もし全ての可能性が残された言葉があったとしても、煙と変わらないくらい、吹いて消されてしまうものなのかもしれない。でもだからといって言葉を諦めたら、それ以降はもう口を開けなくなってしまう。
結局、今回はそんな機会も無く、手の届かない(伸ばさなかっただけか)所を通り過ぎて行った。ただ悔しいというのは強く残る。

シブヤ

暗く光の落ちた、でもどこかしらは光っている、ショーウィンドウを眺めながら公園通りを歩いていたら、舞台の上にポンと放り出されるように、身体が渋谷の街に放り出された。今まで、特にここが渋谷なんだ、と意識したことはなく、というよりも、いつの間にかそれが日常で、気にもならなくなっていた。それがまた、ここは東京の渋谷だ、と認識する。スクリーンで見ていたものに、突然奥行きが生まれて立体的に目に入ってくる。これが渋谷なんだと。ひぇ〜、ひぇ〜、と観光客のように、今度は街全体を見回すように眺めていると、後ろからフランス語を話す声が聞こえてくる。観光客になっているこちらをスッとその声は抜いて行く。その二人の背中に視線を向けると、でも、不思議なことにここはパリでも良いんじゃないか、という気になる。会話の内容は勿論全く分からないけれど、本当にフランス語なのかも分からないけれど、きっとパリでもこの背中は見ることは出来る。いや、パリじゃなくても、ミラノでも、ロンドンでも、ニューヨークでも、香港でも、見ることは出来るだろう、という気がする。街の中で生きてるのは人で、どこの街に行っても歩いている人はいるだろうし、話している人もいる。座ってたり、走ってたり、音楽を聞いていたり。自転車とかバイクとか自動車とか。泣いているかもしれない。観光をしていたはずが、視線は既にないフランス語を話す二人の軌跡を辿ったまま、物語を、渋谷の街で知らぬパリの街の通りの物語を想像し始めていた。

〜から

それなりには一年を過ごしたのだろう、一瞬だったように思えたが、振り返れば季節がそれぞれの記憶に染み込んでいる。東京に出てくる前は部屋の中で過ごす生活だったから季節は窓の外を通り過ぎて行くもだった。実際、これと言って、何を得られたかというとわからない。でも、この身体で感じた季節は、記憶の静止画に、風が吹き、木の葉が揺れ、色の付いた映像になった。願いに応えられず、悲しみを生んで和らげることも出来ず、そんな状態で利己的過ぎるかもしれないけれど、何となく、では無くなってきた、ということは変わったかな。
思わぬ人からの思わぬ憂いに恐縮するしかなかった。数日前にふと浮かんだ、あなたは知らなければならない、というフレーズが再び浮かぶ。私は知らなければいけない、ということか。今なお、想像力は乏しい。

MacBookPro

ドライブが壊れてDVDが読めなくなって半年。処理速度にも不満が出てきたので、ニューマシンを購入。当初はiMacの20inchでも、と思っていたがディスプレイの問題から24inchに。でも、その価格だったらMacBookPro 2.4GHzも良いか、となり、でもでもカスタマイズするんだったら2.53GHzモデルでも変わらないか、とMacBookPro 2.53GHzに。現状から考えるとかなりの出費。しかも思っていたよりお金を持っていなくて銀行でびっくり。でもまぁこれでやっとHD映像の編集が出来る。
断片が、ただそれが断片ならば、いつまで経っても、何をしてみても、ただ断片でしかない、と帰り道、信号待ちの間、目の前を通り過ぎる車のライトを曖昧に見ていて気づく。いくら並べてみても、いくら重ねてみても、それは断片の集まりでしかなく、円周率の無限に連なる数字と変わらない。断片というのはただの容れ物。そこに物語が無ければ数字と同じ。私から生まれる断片に物語が無ければ、私という姿を浮かび上がらせることは出来ない。