トイレットペーパーがあと1ロールになってしまったので薬局へ行くと既に売り切れ。近隣の数店を回ってみたがどこにも無い。トイレットペーパーがどれくらいで終わってしまうのか、これまで気にしたこともなかったから分からないけれどまぁ仕方がない。
地震以降、隣のコンビニと100m程離れた99shopにしか行っていなかったから、徒歩10分ともない駅前にまで行ったのは久しぶりだったが、すれ違う人の殆どがスーパーのビニール袋を下げている。スーパーまで足を運ぶと、テレビで報道されているように入場規制はされていなかったものの食品は殆ど無い。店員に在庫を掛け合っている人もいる。店員のお昼だろうか、制服を着た磯辺揚げを1つだけ持った人がレジに並んでいた。取りあえず、一鍋分位はまだ野菜あったよな、と大量に売れ残っていたハヤシライスのルーと舞茸を買って帰る。擦れ違った人達のあの両腕に下がったスーパーのビニール袋に目一杯詰まっているものって一体何。
区内という立地から輪番停電のグループ分けに入っておらず、一日中滞り無く電気は使える。ただ電気が無ければ成り立たない仕事をしているから、と出来るだけ消費電力を少なくするようにあれこれと確認した。長野に戻ってきていたら、と言われる度に、今は余計な移動はしないよ、と答えていたけれど、こういう意味では戻って仕事をした方が良いのかもしれない。ガソリンが無いようだけれど、車は持っていないしな。
そもそも否定などしようが無いから、これから起こる災害も含め受け入れるしかない。その上でどう生きていくか。どう生きたいか。それはこの悲惨な状況に限ったことではないけれど、でも、こういうことが復興への確かな地盤となるんじゃないか。被災地の方は兎に角今を生き抜かねばならないから、それ以外の人間がそうあればな、と思う。どうあれ情けないことだけれど、あのビニール袋に詰まったものが復興への希望だったら、と思いながら帰った。
数日前から眠れない状態が続いていて、11日もそれに乗っかって一気に色々な仕事を片付けている最中だった。いつでも耐えられない眠気が襲ってきても大丈夫なようにパジャマのままで。ゆら、っときた時には、前日にも少々大きな地震があったから似たようなものかと思ったが長い。そして次第に大きくなる。やばい、と気づいたのは少し遅かったのかもしれない。死んだかも、と思った。玄関を飛び出す時の、食器が崩れて割れる音が耳に残っている。道には多くの人が出ていた。住んでるマンションの煉瓦タイルが剥がれて歩道に幾つか落ちている。揺れが治まってもすぐには戻る気にはなれなかったけれど、取りあえず、無事だというメールをすぐに送った。この時は数年来予測されていた関東大震災なのだと思っていた。漸く部屋に戻ると滅茶苦茶で、中でも冷蔵庫は移動して出入り口を塞いでいたから青くなった。動かせないようなものでもないけれど、一刻を争う時だったら。テレビを付けて状況を確認して震源地が東北沖だと知る。恐怖と余震で、良かった、などと思う余裕も無く、部屋と道を行ったり来たりをしていた。向かいの魚屋で普通に買い物している人が何だか違う世界にいるように見えた。隣に話をできる人がいない一人の部屋は酷く不安で、電話にもネットにも余計なトラフィックを掛けるわけにはいかないな、と思いながら少し外に発散した。
あの日から余震や携帯からの緊急地震速報で目覚め、拡大の一途を辿る被災情報をテレビから突きつけられる日々が続いている。まだ続くだろう。僕は生きている、ということは確かなのに、あの地震を感じた時のように、不安と恐怖で作られた今にも崩れそうな足場の上に立っているような感じが拭えずにいる。テレビの中の光景は信じられないもので、でも時間が経つにつれて被災者の言葉がのってきて、それがとても痛い。そして現実なんだと地面に強く足を打ち込む。自分に何が出来るだろう。取りあえず、節電、節制か。人が生きていくための場所を確保し続けることもひとつだろうか。でも、問題の解決には繋がらないし無力感さえもあるけれど、一人でも多くの命が助かりますように、とまず願わずにはいられない。地震の翌日に仕事の繋がりから相談されて、被災地の幾つかの場所へ届くとも分からないメールを送ると今日返信が来ていた。知らない人だけれど、ほっとした。
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気づけば2月が終わる。散らかり放題の机上の整理を慌てて始めると、積み重なった書類や本の間から埃と共に、やばいな、という気持ちが浮き上がる。ただ漫然としているようで、切迫感はあまり無い。どこかで楽観している。馬鹿者め、と自らを罵りながら整理を終えると、意外と端末に向かっていたようじゃないか、とまた呑気に思っている。どう客観的に見ても、良し、とはならないのに、どうしてこう日々を逃げるのか。馬鹿者だな、本当に。
春一番がやってきたと思ったら再び冬へ逆戻りして息が白く現れる雨の中、旅行の見送りに羽田空港へ。1ヶ月前に訪れた時は早朝のフライトということもあり、チェックインカウンターでさえポツポツと明かりが付いている程度だったが、平日でも昼間はそれなりに賑わってはいる。ただ、顔に憂鬱さが浮かんでいる人が多い。帰国する人が多いのかそれとも天候が自ずと顔に現れるのか知らないが、もっとドラマみたいな鮮明な顔かと思っていた。というこちらも、あまり変わらない。まぁ子供じゃあるまいしな、と、慣れぬ見送りというものをどうして良いのかも分からず微妙な顔に、じゃあね、と残してさっさと引き上げた。
全く期待していなかった、と言っても過言ではなかったと思う。それがしかし、決勝で李がフリーになった瞬間には一人テレビの前で拳を握り締めていた。
ドーハの悲劇があの青いユニフォームの最初の記憶だろう。入れられた瞬間にバタバタとピッチ上に倒れる選手。あの直後に地元のチームのドアを叩いてサッカーを始めたんだよなぁ、とドーハという言葉が使われる度に思い出す。まさかそんなことが関係しているわけでは無いだろうけれど、今回の代表チームは応援したくなるチームだった。W杯が終わってから半年しか経っていない中で、新しい選手が入り戦術が安定しているわけではない。だから個人の良さというものも出し切れない部分もある。だけれど、それをゲームの中で選手自身が修正していく。勝つ、という気持ちが最後まで続く。集中が途切れない。だから逆転も延長も乗り越えられたのだろう、と思う。不安定さが親心のような気持ちを促して(そんな歳でもないけれど)、見る目が優しくなるということもある。でも、やはり今回の代表にはただ、勝って欲しいな、と思わせる気持ちがあった。ザッケローニも少し好きになったし、セルジオ越後のどうしようも無い日本愛も感じられた。ただまぁこれを続けて行かなければ、次に繋げなければ未来は無いのは確か。精神論で勝てるほど世界のサッカーは優しくはない。地は均し終えたのだから、他の部分をブラジルに向けて少しずつ重ねていってもらいたい。
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街行く若者は日本と殆ど変わらない格好をしているし、電車も東京と変わらない便利さで走っている。原チャリはかなりの無法状態で右折しようとする車の右側から平気で抜いて行くし、歩道だってクラクション鳴らしながら走る。最初に乗ったタクシーの運転手が首をブルブルと時折細かく震わせる仕草がとても気になったのだけれど、どの運転手も同じ様な動作をしていてやっと左右確認の為なのか、と納得した。日本人がかなり来ているようで、どこでも日本語で話している声が聞こえたし、現地の人に日本語で話しても伝わることが多い。日本人向けの店も多く覗いてみると価格もそれなりだったが、少し路地に入って地元の人が行くような店に入ると食事も半分程度の値段で食べられたしそちらの方が美味しい。交通費は段違いに安くて、1時間電車に乗っても日本円にしたら150円もしない。観光ポイントをがんがん巡るような観光をしたわけではないけれど、2泊3日朝から晩までフルに動いてお土産も買って使ったお金は15,000円にも届かないくらい。日本人が行く理由も分かる。国内旅行の方が金が掛かる。友人が101の展望台に行っている間こちらは階下の本屋で言葉は分からないものの色々と捲っていたが、日本では発売(翻訳)されていないものが幾つかあった。売れなくても、という感じだろうか。国内用のガイドブックを開くと台中・台南も面白そう。旅程や天候で諦めた場所もあるから、そこそこ稼げればまた行けるかな。歩き回ったおかげでマップも大分頭に入ったし。他の国にも行きたいが、それは大分稼がなきゃ行けない。
故宮博物院、龍山寺、孔子廟、九份、taipei101、迪化街、士林夜市、李製餅家、京鼎楼、九份茶坊、wellcome、誠品信義店、Just Sleep
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