undergarden

Thanatos

最近は帰省の度に家の環境整備をやっているような気がする。妹たちは結婚しても近所には住んでいるから頻繁に寄っているようだが、男手はないから必然こちらが請け負わねばならない。今回は地デジ化。アンテナからのケーブルも途中で切れていて、室内アンテナを使っていたけれどまぁそれではどうしようもないので、屋根上のアンテナとケーブルも全て取り替える。粉雪の舞う屋根で寂寥感に少々惑わされたが、思っていたよりも簡単にすぐに終わった。紅白が見たい、という母のリミットにも間に合った。ただ液晶テレビの価格調査に行った某家電量販店のネット回線勧誘は頂けない。それ程広くはない通路で人の行く手を遮るように営業を掛けられても、ただ邪魔でしかないし、絶対得するよ、という相手の無知を決め込んだ押し売りと何も変わりないやり方は、店の許可があるからその分傲慢で身勝手で非常に不愉快。関係ないのに。何れにしてももうあの店には足を運ばない。
物事を論理的に捉え選択していくことに憧れてはいるがなかなか難しい。自身のこととなると尚更で、煩わしさも首を擡げてくるから、感覚(直感)で選択することも多い。感覚といっても過去の経験が関わってくるのだし、論理と言っても正しさを選ぶだけのようなロジックなど願い下げだから、そうなってしまうのも仕方がない。ただ、まぁ飛び級のように進める生でもないし、先ばっかり見てないで、出来ることをひとつずつやってみようと、年末に掛けて色々と聞いた言葉の中で思う。そういえばもうすぐまだ高校生の頃に、どうやらこの年で死にそうだな、と思っていた年齢が明ける。
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クリスマスの約束

初回を録画鑑賞してから(あの頃はまだVHSだった)10回目。もう10年もやっているのか、クリスマスの約束。でもがっかり。あんまりだった昨年から何も変わっちゃいない。初めの数回は、歌に、ステージに、物語があったのに、今ではただのカヴァー曲ライブなってしまった(本人は歌うけれど)。小田和正はコンセプトだけじゃ駄目だって知ってそうなのに、何でこのような変化をしたのだろう。ステージに立っているボーカリスト達の姿に今や先を求める感じがない。過去に付けた足跡の上を同じように歩いている姿しか見えない。ただ沖縄出身の二人は違った。探してるような、求めているような、惜しむような。声や表情に物語が浮かぶ。
年齢が重なれば重なるほど、人が集まる場では、背の高さをつま先立ちやら膝を折るやらして合わせるような微笑みが増える。それが大人と呼ばれるものかもしれない。けれど、良いものを作ろうと思うのならば、果たして並ぶべきだろうか。小さなステージで代わる代わる音を響かせる学生バンドだって目は獲物を狩るようにギラついているし、文化祭の壁画制作だって活発さの中に鬼気としたものが宿っている。別にそうあるべきだ、とは思っていない。結果的に、微笑みの重なりで良いものが生まれるかもしれないし、ギラつく視線が何かを殺すかもしれない。けれど、やはりそれは並ぶことがまずあったわけではないだろう。何をしたいのか、またそれが何に向かっているのか。それを考えて歩く必要はある。来年に向けての自戒を込めて。メリクリ。
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bessa

デジタルを使い始めてから出番の無くなったContax G1セット(ボディ、45mm、28mm、90mm、ストロボ)をドナドナして、Voigtländer Bessa R2Aを中古購入。グレーモデルは元箱付きで安く売っていたが、精神衛生的に少々プラスしてブラックモデルにする。R3Aという選択もあるが、何となく広角レンズが欲しくなりそうなのでR2Aに。ただライカM2とはすごく悩んだ。が、値段と程度の問題で、お金持ちになった時に、と諦めた。まぁAE付いているから良しとする。レンズはM-Rokkor 40/2もあったが格安だったNokton Classic 40/1.4 S.Cに。Portra 400NCのバラ売りが無かったのでTRI-X400で数枚撮ってみるが、ブライトフレームでの視認にまだ馴染めない。40mmのフレームもR2Aには無いから少々ややこしい。シャッター音はメタルシャッターだからライカよりは当然大きいが、でもまぁ可愛い感じ。ファインダーが少々劣化しているので、長野に帰った時にでもコシナで見てもらおうか。サポセンってあるのかな。
去年に続いて年末歌舞伎。昨年は寝不足で途中大分辛かった思い出があったが、今年は夕方の回だったから存分に観られた。声の残し方で大分響きが変わる。松本幸四郎はそこが上手かった。だからソロでも貫禄を感じる。恐らく風邪引きだった市川左團次の咳も同様か。歌舞伎の咳だった。染五郎は誰かと演じている時には良いのだが一人だと少々物足りない。声が細いのか。だが、ここまで格好良かったとは思ってもいなかった。
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gray

気候や身体のことからまず始めるのは、やはりそれが一番素直な反応だからだろうか。他に何も考えちゃいない、ということもあるか。寒さを覚悟していたが、予想以上の寒さに帰省早々ぼやくと、こちらからすると死にたいとしか思えない軽装の友人から、今日は暖かいけど、と言われたのが一週間前。翌日訪れた軽井沢でも同様のことを言われた。ただまぁ数日で慣れる。東京へ戻ると、電車内は暑く、外気も涼しいくらいになった。が、これにもまた数日で慣れてしまう。
GXRを一応は持ち帰ったものの持ち歩くことは無かった。あまりに趣味的過ぎるけれど、上がりの質感よりも、ファインダーを覗いてシャッターを押すまでの気持ちの在処でフィルムカメラを手に持っている。バシッと瞬間的にフォーカスを合わせることは出来ないが、それは見ているからそれ自体に興味があるわけではないんだな、と何度目か分からない野尻湖の湖畔にて水上を滑る鴨を見ながら思う。水が撥ね上がる瞬間ではなくて、撥ね上がった水滴が作った波紋が融けたあたり。グレーが黒になりそうなあたり。そこにあるものが見たい。まぁそういう意味でも、黒(や白)に近いグレーの感じは、デジタルでは四捨五入されているようでなかなか難しいから、今はフィルムってことで良いのかもしれない。
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film

背面液晶にぼやきながらもいざ無いとなると少々不安になる。凡そ二年ぶりに持ったフィルムカメラは、でも、1枚目はそんな不安と記憶を手繰り寄せるものだったが、それ以降はデジタルカメラで固定化されていた時間からの解放を享受していた。デジタル化によって獲得した撮影から確認までの殆ど0に近いスピードは、確かに写真というものが純粋に進化した結果なのだろうけれど、ただ人が観る対象としてはこのスピードは必要な進化だったとは言えない。でもこれは人の感覚がスピードに、利便性に、効率性に何れというよりも既に慣れてしまってはいる。ただ、ゲームの中で過ごすようには目の前の光景は後戻りもリセットも出来ない。時間は、どんな説があっても、感覚の上では順方向に流れている。同じように目の前の光景も同じ時間が流れている。デジタルを持ったことで人の時間が早く流れていると錯覚し、また早すぎて戻れる(やり直せる)という感覚が、フィルムにあったものを失わせたような気がした。まぁでもこれは、こちらがデジタルの利便性に溺れてただけの言い訳か。現像からあがってきたものを見ると少し丁寧に撮っているのに苦笑う。反省、反省。
シャッターを押しているのにおかしなものだけれど、常に鑑賞側でいたいという思いがある。というか、こちらは存在する光景に向けてカメラを持ってそのシャッターを押しているだけだから、それ以外にはあり得ないだろう、と。まぁだから、背面液晶で見る目の前の光景と殆ど変わらない画像を見ていることに、何を見てるんだろうな、という悲しさがあるのかもしれない。微妙に直ってきたRTSは、字の如く、微妙に直っているが修理内容のメインだったシャッタースピードについては完全には直っていない。ただ調整はされたようでカメラが教えてくれる適正露出で撮ると、アンダー気味に写る(修理に出す前は酷くシャッタースピードが遅かった)。元々そんな設定だからまぁ程よくチューニングされたと思うことにする。このままフィルムを暫く使いたいけれど、デジタルに慣れた金銭感覚では少々躊躇ってしまう。
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