undergarden

夏前

どうもMacBook Proが浮いているな、と裏返してみたら裏蓋が少し浮いている。酷使している上に乱暴に持ち歩いているからしようがないと、使用に不便は無いから放っておいたが、今回、長野へ帰省している間にバンッと外れて嵌らなくなってしまった。流石にこれはおかしい、とバッテリーを外してみたらバッテリーがメタボになってる。なりかけ、という感じか。電池の持ちも大分悪くなっているし新品を購入しようか、と思いつつ、それでもこの膨張は無いよな、と東京に戻ってからGenius Barに予約を入れて持って行った。延長補償に入っているわけではないからとっくに補償期間は過ぎているし、そのことで対応してくれたスタッフの方も悩んでいたが、結局、通常使用から考えると少し早い時期での不良ということで無償交換。現場判断でこの対応は嬉しい。安心出来るというか。震災時のディズニーランドのキャストの対応もそうだったのだろう。東電やソニーの誰がどんな判断で出した結論なのか見えない対応は悪戯に不安を煽る。でも両隣の持ち込み相談をしていた人も同じバッテリーのメタボ症状で、おいおい、と。夏場はバッテリーは外しておいた方が良いか。続けて長野から持ち帰ったF3の点検の為に新宿Nikonへ。ただこちらはある程度想像はしていたが重症とのこと。直すならば中古購入した方が安い。まぁ買わないけれど。
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キャブ

バイクなんて、と長い間思っていた。乗りたいという欲求はあったが、それは好奇心とスキルの問題からであって車への気持ちとは比較にはならなかった。昨年、免許を取りに行った時も殆ど変わらず、それに移動方法の確保という切実さがプラスされたくらいだった。
冬の始まりに紹介されたスカチューン仕様のセローを、春の終わりには乗りたい、と若葉マーク向けへのデチューン整備をお願いし4月の末に完了の連絡を受けた。なかなか帰省の予定が立たず、移動の為に移動する、という言葉に起こしてしまうと何となく虚しいトートロジーのような理由を横に置けるような理由を待っていた。この時は所有欲が勝っていたか。まぁ乗るまでそんな感じだった。車を手に入れる時と同じようなもの。早く乗りたい。だが、その後が違った。車はそれそのものに気持ちが向くのに対して、バイクはフィジカルに向く。速度に応じて身体に感じる大気の重さや身体と連動する車体の挙動。今身体がどうあるか、という情報を取ろうとする。生憎、乗る度に何らかの不具合が起こるので、再整備をしてもらうことになって手元にあったのは短い時間だった。ただその割に残った空虚が大きい。過去、少々やんちゃな車に乗っていたからこういうことには少しは慣れているのだが、感覚の一部を取り上げられてしまったような気持ち。数年振りにボールを蹴った時に、もう昔のようにサッカーは出来ないのか、と感じてしまった時と似ている。まぁでもこれは来月の帰省時にまた身体に戻る。
様々なことに気づくのが遅いと最近やっと気づき始めた。ヒントは周りの人が沢山出してくれているのに、時にはダイレクトに伝えてくれるのに、中々反応出来ない。いや、胎児の反射くらいには反応はしている、と思う。けれど出てくるまで長い。鈍感、と敵を討つような目で言われたのは中学生の時だったか。その意味にも今更気づいている。
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過日

これで良いんだ、という殆ど我が儘のような理屈が、経験という後ろ盾が歳の数だけ分厚くなって、それを正しさと誤認する。良し悪しを絶対的な場所に掲げてしまう。良いから良いんだ、無理だから無理、分からないものは分からない。そんなのは相対的なものなのに。過去の中で考えていると自身を疑うこともないから、それに気づかない。だから今を現実的に捉えて、不透明で曖昧な明日のために藻掻く。
数日前のよく分からない集いを引き摺っていたのだろう。夢の中で更に続けてた果てでこんなことを考えていた。無理だと諭されるように結論づけられてしまい、腹の中で悪態を付いていたあの夜に、でも落胆していたのは言葉を尽くせなかった自身にだったように今は思う。知らず、分からず、それすら知らず、妥協してしまうことに諦めてしまったことだったように思う。こちらも分からないのに。ただ、どうして未来は明るいとあんなに漠然と信じられるのだろう。
そういえば同じ眠りの中でハッセルブラッドを貰った。こちらは漠然とでも良いけれど信じたいものだけどなぁ。すぐに逆夢だと言われてしまった。

羊の数え方

元々寝付きは悪い方だけれど、最近は特に酷い。毎日のように2〜3時間は布団の中でうだうだとやっている。眠くて暗い内に布団に入っても夜が明ける。眠りの底に落ちるには不要な余分を絶え間なく拵えてしまっていることもあるだろう。なので、これまでどれだけの人がチャレンジして、どれだけの効果を上げたのかも分からないけれど、藁にも縋る思いで、羊を数えてみた。画面の中央に柵を置いて、羊がそこを飛び越える度に数を増やす。10匹くらいまではいく。そのあたりから羊が勝手に動き始める。飛び越える時に一回捻りを入れてみたり、回転してみたり。後ろ向きに歩いてきて飛び越えるものも出てくる。本来の目的も忘れて数えるのも忘れる。で。始めから。柵の飛び越えがリズムを与えて良い感じになってしまうのだな、と柵を取り外す。するとトボトボと羊はお通夜みたいにただ画面を横切っていく。これはいいぞ、とお経のように数える。しかし、これもやはり10匹くらい。ちょっとした体毛の色や厚さの違いが見えてくる。年齢なんかも気になってくる。それでもまぁ数えは続いているのだが、そのうち遠くから牧羊犬の啼く声が聞こえてきて、遊牧民が駆る馬の音さえも俄に聞こえ始める。そうなるともう羊なんか数えてはいられない。モンゴルっぽい大地を見つめてしまう。そんなんで今日も眠れない。
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プリント

引き伸ばし機でプリントをしてみたが思っていた程の感動は無い。インクジェットプリンタで初めてプリントした時の方が感動していた気がする。ただデジタルプリントで抱えていた不満は欠片も無い。
考えてみれば幼い記憶にこの作業が残っている。薬剤の臭い、セーフライトの光、浮き上がる像。この感動の無い落ち着きは、だから安心感なのかもしれない。そもそもこれが写真だったのだから。そうやって記憶が始まっているのだから。モノクロを選んでいるのもここに原因があったのかもしれない。写真を嫌ったことによって大分遠回りをした。他の付き合い方があったろうか。そしてどこかの時点で同じようにプリントすることになっていただろうか。分かるはずもないけれど、まぁここまで時間を掛けなければいけなかったのは確かなように思う。時代の後押しも必要だった。成るようになった、と呆れつつ少々口角が上がる。
業務が立て込んでいるから作業の流れと結像の確認だけに止めようと思っていたが、気づけば6時間も経っていた。周りの方が薦めていた理由が良く分かった。経験しなければ見られないものがある。