キャブ
バイクなんて、と長い間思っていた。乗りたいという欲求はあったが、それは好奇心とスキルの問題からであって車への気持ちとは比較にはならなかった。昨年、免許を取りに行った時も殆ど変わらず、それに移動方法の確保という切実さがプラスされたくらいだった。
冬の始まりに紹介されたスカチューン仕様のセローを、春の終わりには乗りたい、と若葉マーク向けへのデチューン整備をお願いし4月の末に完了の連絡を受けた。なかなか帰省の予定が立たず、移動の為に移動する、という言葉に起こしてしまうと何となく虚しいトートロジーのような理由を横に置けるような理由を待っていた。この時は所有欲が勝っていたか。まぁ乗るまでそんな感じだった。車を手に入れる時と同じようなもの。早く乗りたい。だが、その後が違った。車はそれそのものに気持ちが向くのに対して、バイクはフィジカルに向く。速度に応じて身体に感じる大気の重さや身体と連動する車体の挙動。今身体がどうあるか、という情報を取ろうとする。生憎、乗る度に何らかの不具合が起こるので、再整備をしてもらうことになって手元にあったのは短い時間だった。ただその割に残った空虚が大きい。過去、少々やんちゃな車に乗っていたからこういうことには少しは慣れているのだが、感覚の一部を取り上げられてしまったような気持ち。数年振りにボールを蹴った時に、もう昔のようにサッカーは出来ないのか、と感じてしまった時と似ている。まぁでもこれは来月の帰省時にまた身体に戻る。
様々なことに気づくのが遅いと最近やっと気づき始めた。ヒントは周りの人が沢山出してくれているのに、時にはダイレクトに伝えてくれるのに、中々反応出来ない。いや、胎児の反射くらいには反応はしている、と思う。けれど出てくるまで長い。鈍感、と敵を討つような目で言われたのは中学生の時だったか。その意味にも今更気づいている。
帰省した日に母と夕食を共にしながら東京の放射能の値を聞かれては、帰ってくれば良いのに、と何度か言われる。それはそれで生きてはいけないよ、とその度に答えたのだけれど、どうなのだろう。何れにしても自身がはっきりしなければ、何事も停滞する。その間にも時間は滞り無く進む。