影送り
やはり、疲れているからだろう、気付けば垂直に近い角度で地面を見つめている。過ぎた筈の夏を引き戻したような鹿児島、沖縄から清里を訪れると、厚着をしたと思っていた身体を震わす程に季節は冬に向かっていた。山間の雲は重なったり離れたりと、視線の先に映る自分の影の濃淡を刻々と変えていて、ふと、子供の頃も同じ様に影を見た事があったな、と10秒間見つめて空を見上げてみる。そこに映るはずの影はない。こちらも疲れからだろう、ここの所、たまに少し白く靄が掛かったようになる視界で見えないのか、と暫く目を閉じて、再び試みたがやはり映らない。大人になると見えなくなるんだよ、とドラマやアニメのように耳元で囁く子供の自分が憎たらしい。振り払っては忘れ、気付けばまた影を見て空を見上げる、という事を何度も繰り返して、そろそろいい加減諦めろよ、と聴こえた途端、空に白くぼやっと影が映る。きっとずっと映っていたのだろうと思う。ただ、影だから黒く映るのだ、と思い込んでただけで。今度は今の自分が、大人になると見えなくなるんだなぁ、と呟く。
日にち自体に意味を持たせないようにして過ごして半月ちょっと。仕事ばかりしていて、自分の生活が成り立たなくなってきた。休みも期待しなくなったから、全てが止まったように動かない。得てる事もあるのだろうけれど、それが反復であり、その為にある程度レスを自分で与えてしまっているから、じゃあ後はどう実践するかの問題で、現状、こちらにも意味を持てないでいる。
一般的、客観的、という問題を貰ってから8年は経っただろう。結局はどちらも主観なんだ、と頭で分かっていても現実として掴めずにいたけれど、不満を重ねるうちに、やっと掴めた気がする。
妹と久しぶりに電話で話しているうちに、何とも自分の立場が歯痒くなる。今後のことをもっとちゃんと考えて伝えなきゃいけないな、と思いながら、また更に歯痒さは増す。
ゆっくりと旅にでも出たい。
生活とビジョンが錯綜するのが人生だが、日常反復以外に取りつく島の無い人間は日々が辛いだろうな。それが蓄積する。そういう意味では、光の射す窓のほうを向いているだけラッキーということだ。都度目にすることからしか得るものはないから、一度ぎゅっと現状を観念で構築しあげてもいいかもしれない。最近は、俺も、昔の学生の頃の缶詰工場の夜が克明に浮かぶので、その時の気持を再現しようとするのだが、時間の経過が阻んでなかなかむつかしい。どうこういっても残るものは残るよ。なんと、jinが小説書きたいといっていた。そういうことだ。
錯綜というよりはどちらも制御されていて、だから反復する度に狭くなりますね。だからまぁ思案出来るとも思いますが。兎に角、今は現実が虚ろにならないように頑張るだけでしょうか。その為の小説でもあるかもしれません。