undergarden

film

背面液晶にぼやきながらもいざ無いとなると少々不安になる。凡そ二年ぶりに持ったフィルムカメラは、でも、1枚目はそんな不安と記憶を手繰り寄せるものだったが、それ以降はデジタルカメラで固定化されていた時間からの解放を享受していた。デジタル化によって獲得した撮影から確認までの殆ど0に近いスピードは、確かに写真というものが純粋に進化した結果なのだろうけれど、ただ人が観る対象としてはこのスピードは必要な進化だったとは言えない。でもこれは人の感覚がスピードに、利便性に、効率性に何れというよりも既に慣れてしまってはいる。ただ、ゲームの中で過ごすようには目の前の光景は後戻りもリセットも出来ない。時間は、どんな説があっても、感覚の上では順方向に流れている。同じように目の前の光景も同じ時間が流れている。デジタルを持ったことで人の時間が早く流れていると錯覚し、また早すぎて戻れる(やり直せる)という感覚が、フィルムにあったものを失わせたような気がした。まぁでもこれは、こちらがデジタルの利便性に溺れてただけの言い訳か。現像からあがってきたものを見ると少し丁寧に撮っているのに苦笑う。反省、反省。
シャッターを押しているのにおかしなものだけれど、常に鑑賞側でいたいという思いがある。というか、こちらは存在する光景に向けてカメラを持ってそのシャッターを押しているだけだから、それ以外にはあり得ないだろう、と。まぁだから、背面液晶で見る目の前の光景と殆ど変わらない画像を見ていることに、何を見てるんだろうな、という悲しさがあるのかもしれない。微妙に直ってきたRTSは、字の如く、微妙に直っているが修理内容のメインだったシャッタースピードについては完全には直っていない。ただ調整はされたようでカメラが教えてくれる適正露出で撮ると、アンダー気味に写る(修理に出す前は酷くシャッタースピードが遅かった)。元々そんな設定だからまぁ程よくチューニングされたと思うことにする。このままフィルムを暫く使いたいけれど、デジタルに慣れた金銭感覚では少々躊躇ってしまう。

新宿のNikonはハローワークの上階にあって、エレベーターに乗ると白髪頭のお年寄り以外は大体そこで降りる。世の中の縮図。Nikonではその空に近づいたご老人達がテレビから流れる新製品の先進的技術に釘付けになって頷きながら、呼ばれるのを待っている。一体、何を残したいのだろう。死を近くに感じる者が残す光景とはどんなだろう。その為の頷きであって欲しい。

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