20120122
いつだったか、文字が留まらない、とぼやいたけれど、これが回復傾向に走ったと思ったら今度は、声が留まらなくなった。対面で話をしていて頷いてもいるのだが、知らぬ間に知らぬ話になっている。過ぎた声がぼんやりと漂ってはいるのだが、その繋がりが分からない。ともすれば、拾った声から勝手な思案を始めて脈絡の無い話をぶっこむ。他者がいる場合に限ったことではない。コーヒーを一口飲んでからメモろう、と頭の中で復唱してからコーヒーを啜ると、舌の上にでも置いたままだったのか、きれいさっぱりに流されて忘れてしまう。以前はこんなことはなかったのになぁ、と思いつつ、ずっとこんな調子だったのかもしれない、と思い直して少々恐ろしくなる。もうこんな状態で三十年も生きてしまっているのだ、もしかしたら。
年明けにジョン・フォードの幌馬車を借りたら嵌り、近所のレンタルショップにもう1本あったわが谷は緑なりきを借りに行く。ついでに、今年に入ってから2〜3日おきに登場して、抜けてく言葉の中で留まり続ける、小津、を探す。邦画の棚のそれっぽい所を探して見つからず、ローラー作戦でやっと下段の片隅にポツンと1本だけあった東京物語を手に取ったが、何度も観ているし東京に戻ればあったはずだ、と一度戻し、いや、でも、やはり、と逆らわずに借りる。あらすじも流れも知っているし観ずに返却することになるかも、と暫く放置したままだったが、手元に捲る本が無くなった夜中に、再生を始めて魂消る。これまでで一番食い入るようにして観た。悔しいけれどこれまで何を観ていたのだろうか、という心持ち。びびる。関わる全てを緻密に積み上げて、偶然で描かれてしまった普遍性を計算して撮る感じ。アングルもカメラも演出もその他全てがロジカルな必然性が過ぎるほどにあって恐ろしい。
60年も前の日本で小津が完成させたひとつの映画という答えを、今の日本でその名残すら感じさせる作品が殆ど公開されないというのは悲しい。映像や音楽はテクノロジーと二人三脚みたいなものだから、そちらに振れるということもあるだろうけれど、海外では撮られているのに、ということを考えるとやはり悲しい。まぁ産業を取り巻く社会の在り方の問題かもしれないけれど。その点、殆どテクノロジーの影響を受けない文学は進歩も少ないが、退行はしていないように思う。失われたものも確かにあるだろうけれど、養ってきた土壌を更に豊穣にしようと苦心する作家の作品をまだ読めるから。